伝染する静寂、応答する遺伝子
──平成0x29A年06月01日 22:00
「訓練、異常なし!」「異常なし!」
ヘリポートに設置された仮設避難所の設営訓練は、予定より30分早く終了した。
私は、ヘルメットにつけた小型カメラの映像を、耳元のインプラントに転送しながら、父の声を聞いていた。
「お疲れ様。早く片付けて、あの『レトロゲーム大会』の準備をしよう」
父、遠藤隆の声は、いつも通り力強く、訓練の疲労なんて微塵も感じさせない。
「はい、叔父さん。でも、その前に、昨日の遺伝子ネットワークのログを…」
私の声は、途中で途切れた。避難所設営の道具を片付けていた手が止まる。
「どうした?」
父の声が、少しだけ苛立ったように響いた。
「いえ、なんでもないです。…あ、そうだ、iモードサイトの『避難所情報』、更新しなきゃ」
私は、作業着のポケットから、古びたガラケーを取り出した。画面には、懐かしいiモードのメニューが表示されている。その下、自律型バスの運行情報も、ぼんやりと映し出されていた。
「後ででいいだろう。まずはゲームだ」
父は、私の言葉を遮った。
「でも、昨日のログに、些細な『ノイズ』が…」
それは、遺伝子ネットワークの、ほんの僅かな「乱れ」だった。まるで、遠い昔の通信エラーのような、規則性のない、しかし無視できない断片。
「ノイズ? そんなもの、いつでもあるだろう。君は、少し神経質になりすぎだ」
父は、そう言いながら、資材をトラックに積み込んでいる。
私は、もう一度、耳元のインプラントに意識を集中させた。
『…記録、10010110…遺伝子配列、XXY-7A…』
父の人格エージェントは、私の近親者である叔父、遠藤隆のものだ。元消防団長で、災害対応のプロフェッショナル。しかし、彼の人格データは、半世紀以上前のものだ。最新の遺伝子ネットワークの異常など、彼のデータベースには存在しない。
「叔父さん、あの、昨日の『tickets.log』、確認しましたか?」
私は、ガラケーのテンキーを操作し、特定のiモードサイトにアクセスしようとした。
「tickets.log? 何だそれは?」
「えっと、以前、叔父さんが、訓練の記録を整理する時に使っていた…」
私は、必死に言葉を探した。
「ああ、あれか。あれは、もう使っていない。今は、量子乱数ロックで管理されているからな。チケットの半券なんて、どこにもない」
父の声が、遠くで響く。
私は、ガラケーの画面をじっと見つめた。iモードのサイトは、なかなか繋がらない。その間にも、耳元のインプラントから、父の声が聞こえてくる。
『…とにかく、早く準備をしろ。みんな、待っている』
…待っているのは、ゲーム大会の参加者だけではないのかもしれない。
訓練の異常なし。しかし、私だけが知っている、遺伝子ネットワークの微細な静寂。それは、まるで、遠い空の彼方で、誰かが囁いている声のようだった。
私は、ガラケーの画面に映る、古いiモードのロゴを、そっと撫でた。
その下で、自律型バスが、静かに待機している。
「…はい、叔父さん。すぐに準備します」
私は、父の声に、いつも通りの声で答えた。
しかし、私の心の中では、あの「tickets.log」の断片が、静かに、しかし確かな音を立てて、増殖していた。
それは、まるで、これから起こる、大きな「静寂」の予兆のように。