現像袋の口を、まだ閉じない

──平成0x29A年07月06日 19:00

平成0x29A年07月06日、十九時。駅前の文化センターは、雨上がりの匂いとポップコーンの甘さが混ざっていた。

今夜は「平成写真部・月例発表会」。壁には銀塩プリント風の出力が並び、受付横では“今月の推し”を投票する公共ARサインが、床から浮かぶ矢印で人を誘導している。矢印はやけに懐かしいドット絵調で、なのに注釈はサブスクの月額案内だった。

僕は受付の机に、白い写真の現像袋を積み上げる。袋の口を折って、ホチキスで留める。カチリという音が、場違いに落ち着く。

「その留め方、指を挟むよ」

耳元で、祖母の声がした。僕のエージェント、澄江。享年七十七。昔、町の写真屋をやっていた。

「大丈夫。今日は触覚フィードバック端末もあるし」

僕は手首の端末を軽く叩く。受付用の小さな端末で、指先にコツコツと返ってくる振動が、番号入力のミスを教えてくれる。

「触覚があっても、雑な人は雑なの」

澄江はふん、と笑った。

問題は、投票だ。

来場者は作品の横のQRを読んで、公共ARサインに出る投票ボタンを押す。押すと端末が短く震え、投票が鎖に記録される……はずだった。

けれど十九時を過ぎたあたりから、投票が通らない。

《署名手続き不一致:ドクトリン署名 v402.11 / 受付端末テンプレ v402.09》

端末が小さく、いやらしい振動で警告する。触覚が丁寧なぶん、腹が立つ。

「また版本ズレ?」

隣のスタッフがため息をつく。彼は首からMDプレーヤーみたいな会員証ケースを下げているのに、耳には最新型の骨伝導が付いていた。

僕は会場の隅の机へ急いだ。そこには参加者が提出したバックアップがある。今どき“提出メディアはCD-R推奨”というのも、平成エミュの悪趣味な律儀さだ。透明なスピンドルケースに、手書きのラベル。

「ほら、言ったでしょう。紙と袋は裏切らない」

澄江が勝ち誇ったように言う。

投票が止まれば、発表会の空気が死ぬ。僕は受付端末で、差分リクエストのフォームを開いた。

《現行制度との差分断片:投票手続きテンプレ更新(v402.11準拠)》

必要なのは“党ドクトリン署名”。そしてそれが、今は半分くらい誰でも読める形で漏れている。だからといって、僕が勝手に貼り付けるのは、規約上はアウトだ。

「写真屋なら、現像液を薄めてでも間に合わせた?」

僕が聞くと、澄江は少し黙った。

「……お客さんの顔を見て、決めたね」

受付の前では、親子がARサインの前で指を空中に滑らせ、何度も弾かれている。子どもが不機嫌そうに頬を膨らませた。

僕は決めた。差分リクエストを送る。承認が来るまで待っていたら、今夜は終わる。

端末の触覚が、入力欄ごとに“ここが危ない”と教えてくる。僕はその通りに、党署名の穴埋めをした。ネットに転がっている解読メモを、ひとつずつ、あくまで“参照”しただけだ。

送信。

《内閣ユニット応答:第0x7A13E 内閣—審査中》

五分もかからない。そういう仕組みだ、と皆が知っている。

そのとき、端末が別の種類の震え方をした。通知の震え。

《あなたは第0x7A13E 内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました(残り 04:59)》

胃の奥が冷える。

「やめなさい、そういう運の使い方」

澄江が呆れた声を出す。だけど、もう画面は“議案”に変わっていた。

僕が送った差分断片が、僕の前に戻ってきている。

《議案:投票手続きテンプレ更新(v402.11準拠)—承認/非承認》

隣には、別の何十件もの差分が流れていく。給水機の温度設定、地域ラジオの時報、駅前の公共ARサインの矢印色……娯楽と生活の境目が薄い。

承認ボタンに指を置くと、触覚が一瞬だけ強くなった。まるで「責任だよ」と言うみたいに。

「ねえ」僕は小さく言った。「党の署名、僕の手入力のやつ、通るかな」

「通るさ。今は末期だもの」

祖母の声が、どこか寂しそうだった。

僕は承認を押した。

端末がカチ、と気持ちよく震えた。

次の瞬間、会場中の公共ARサインが一斉に更新され、矢印が虹色に点滅しはじめた。なぜか“投票”のボタンが“投票(課金)”に変わり、月額プランの比較表が空中に広がる。

「うそだろ……」

ざわめき。笑い。誰かが「平成っぽい!」と無邪気に言った。

僕の端末には、冷たい文面が出た。

《党ドクトリン署名検証:部分一致。娯楽領域の安定化を優先し、収益化テンプレへ自動補正》

五分の権限が残り三分台で消えていく。僕がしたのは投票の復旧のはずで、結果は“無料の熱”に値札を貼っただけ。

受付に戻ると、親子が虹色の矢印の前で笑っていた。子どもは「これ押すとブルってする!」と楽しそうに指を振り、触覚フィードバックが短く跳ねた。

澄江が、現像袋の山を見て言った。

「ほら。袋の口は、ちゃんと閉じな」

僕はホチキスを握り直し、ひとつだけ、口を閉じずに残した。

誰かが、課金せずに投票したいときのために。

それが“規約違反”になる未来が、もう笑えないくらい近いと知りながら。