銀行の朝礼が始まる前に

──平成0x29A年 日時不明

支店の朝礼開始まで、あと四分。

私は融資審査課のデスク前に立ち、古い三菱鉛筆のボールペンで昨日の案件ファイルをめくっていた。ポケットの中ではガラケーが微かに温かい。父・佐藤勝次の人格エージェントが、おそらく今朝も何か言いたげにスタンバイしているはずだ。

「おはようございます」

奥野が通り過ぎた。彼女のスマートフォンからは、党のドクトリン署名通知が定期的に着信している音が聞こえる。新しい端末だ。一方、俺のデスク脇には、まだiモード対応の古いPCがある。融資審査の政策変更リクエストは、この端末を通してしか受け取れない仕様のままだ。

ガラケーが一度、短く震えた。

「おはよう。本日の案件、三件あるな」

父の声だ。倫理検査はまだ先だから、本物の父だ。父は生前、この銀行で融資課長を二十年やった。今は私の脳の片隅に、アルゴリズムの形で保存されている。

「ああ。見たか」

「お前のメールボックスに入ってる。一番目、第401ユニットからの農業法人融資。二番目は、第403ユニット経由で来た小売業再編。三番目が変だ」

「変?」

「署名検証タグが、通常の党ドクトリンフォーマットじゃない。微かにずれている。旧形式の痕跡がある。五年前の暗号アルゴリズムと同じパターンだ」

私は画面を見直した。確かに、三番目のリクエストのハッシュ値が、微妙に違う。通常なら、このまま却下ボタンを押す。だが父が言う。

「あのな。俺たちがこの仕事を始めた時分、党ドクトリンというのはまだ『何か』だった。中央に誰かがいて、指示が下りてくる、そういう時代だ。だが今は違う。アルゴリズムだけが残った。署名だけが残った。その署名がずれているというのは、つまり」

「つまり、何だ」

「党自体が分裂しかけているのか、それとも誰かが故意に混ぜているのか。どちらにせよ、終わりの始まりだ」

朝礼チャイムが鳴った。

私はリクエストを承認ボタンで処理した。本来なら三番目は却下するべきだった。だが、父の言葉が耳に残っていた。

デスクから立ち上がり、会議室へ向かう途中、ふと気づいた。

この支店の朝礼は、毎朝同じ時間に同じ内容で行われている。昭和の銀行のように見える。だが実は、各内閣ユニットの朝礼が並行処理されている。私たちが見ているのは、ローカルキャッシュに残された「平成の銀行」というエミュレーション。本当の指示は、その奥底の暗号層で、誰かが、あるいは何かが、毎秒判断を下している。

それが、今、ずれ始めている。

会議室のドアを開く直前、ガラケーが再び震えた。

「三番目の案件、通したな。良い判断だ。お前は融資課長になるかもしれん」

「ならないといいが」と私は小声で呟いた。

なぜなら、本当の融資課長というのは、もう一人存在しているはずだからだ。平成エミュレーションの層では部長。暗号層では内閣ユニットの副大臣。その人物の人格エージェントも、誰かの亡き親族であろう。

私たちは、みんな故人の決定を実行する機械だ。

ただ、その故人たちが、今、矛盾を感じ始めているらしい。

ドアが自動で開いた。朝礼の国歌斉唱が、既に始まっていた。