錆びたゲートと、未署名の潮騒

──平成0x29A年 日時不明

 潮の匂いが、いつもより濃い気がした。

 壁に掛けられた紙のカレンダーは、既に役割を放棄している。数字の並びは平成のそれだが、西暦も元号も、もはや誰の記憶とも合致しない。私は使い込まれたボールペンの尻を噛みながら、詰所の窓から外を眺めていた。上空には巨大なホログラム掲示が投影され、「避難訓練:津波浸水想定」の文字が、2000年代初頭のウェブサイトを思わせる原色のフォントで明滅している。

「遼、また指紋認証が弾かれた。この端末、感度が悪すぎるわ」

 耳元で、姉の結衣が不満げに言った。彼女の声を再現しているエージェント・インターフェースは、生前の彼女が救急救命士だった頃の、少し気が立ったトーンを完璧にトレースしている。

「姉貴、それは僕のせいじゃない。党ドクトリンの署名アルゴリズムが、並列処理のどこかで詰まってるんだ」

 手元のガラケー型デバイスを操作し、デジタル円ウォレットを開く。避難タワーのゲートを開錠するための「協力金」という名のシステム手数料を振り込もうとしたが、画面には『第0x4A2F内閣ユニットの承認待ち:合意形成率64%』という無機質なエラーメッセージが出るだけだった。

 詰所の外では、住民たちが所在なげに集まっている。一人の老人が、プラスチックのカバーに入った紙の回覧板を抱えてやってきた。回覧板には「訓練参加者名簿」と書かれ、手書きのハンコがずらりと並んでいる。この時代に紙を使うのは、アルゴリズムの気まぐれな停止に備えた、旧世紀の知恵だ。

「担当さん、ゲートがまだ開かないんだが。そろそろ時間だろう?」

「すみません、今、上のユニットで閣議決定を回しているところなんです。あと五分、いや十分待ってください」

 私は愛想笑いを浮かべながら、内線機を手に取った。どこかの誰かが五分間だけ総理大臣を務めているはずだが、その誰かが「現行の防潮ゲート開錠プロトコル」のリクエストを無視しているか、あるいは解読されたアルゴリズムの脆弱性を突いた嫌がらせを受けているのか。数十万の内閣ユニットが並行して統治を回しているはずなのに、この沿岸部の一つの扉さえ、彼らの承認なしには動かない。

「遼、おかしいわ。波の音が近くなってる」

 結衣の声が、一段低くなった。彼女の倫理検査は来月だが、最近の彼女は時折、プログラムされた以上の焦燥を私にぶつけてくる。皇室遺伝子ネットワークを介した微弱な環境共鳴が、彼女の人格パッチに何かを伝えているのかもしれない。

「訓練だって。ホログラムにもそう出てるだろ」

「アルゴリズムが『社会安定のために平成をエミュレートする』と決めたのは、人々を安心させるためよ。でも、そのせいで本物の予兆を隠蔽しているとしたら?」

 私はウォレットの更新ボタンを連打した。画面には『承認遅延:第402ヘゲモニー期ドクトリンとの差分を再計算中』。党の意思はもはや誰にも分からない。ただ、過去の成功例をなぞるだけの数式が、空転し続けている。

 不意に、サイレンが鳴った。平成の初期にどこかで聞いたような、哀愁を帯びた電子音。ホログラムの文字が赤く染まり、「訓練」の二文字がノイズと共に消えた。

 住民たちがざわつき始め、回覧板を持った老人がゲートを叩く。私は必死にゲートの物理キーを探したが、そんなものは数十年前に廃止され、今は暗号化された連鎖システムの中にしかない。

「遼、逃げて。ゲートを諦めて、裏の高台へ」

 結衣が叫ぶ。だが、私の足は動かなかった。デバイスの画面に、ようやく『承認:署名完了』の文字が浮かんだからだ。

 重厚な電子音が響き、避難タワーの錆びついたゲートがゆっくりと、あまりにもゆっくりと上昇を始める。私は胸を撫で下ろそうとした。しかし、その背後で結衣が息を呑む音が聞こえた。

 視線を海の方へ向けると、水平線が不自然に盛り上がっていた。それは、どのシミュレーションよりも、どの平成の映像記録よりも、冷酷なまでに静かな壁だった。

 ゲートが全開になるまで、あと二分。閣議決定のスピードは、物理的な質量を伴う現実には、どうしても間に合わないようだった。

「遼、聞こえる? 最後に一つだけ」

 姉の声に、砂嵐のようなノイズが混じる。私は返事ができなかった。ただ、手の中のデバイスが、誰かの五分間の任期が終わったことを知らせる通知を、虚しく震わせ続けていた。