針の影が伸びるベンチで

──平成0x29A年05月21日 15:30

平成0x29A年5月21日、15時30分。公園の中央にある古い時計塔のアナログ時計が、秒針を律儀に刻んでいる。風が抜けるたび、金属の針が日差しを反射して、ベンチの背板に細い影を落とした。

私はその影の下で、制服の胸ポケットからMOディスクを取り出した。透明ケースは擦れて白く曇り、ラベルには油性ペンで「倫理検査ログ/第19回」とだけある。公園の木陰は、検査所の待合より落ち着く。落ち着くはずなのに、喉の奥が乾く。

「そこ、人通りが見える。逃げ道もある」
耳の奥で、姉の声がした。

姉――佐々木美沙は、三年前に合成食品プリントのライン事故で死んだ。いまは私の近親人格エージェントとして、視界の端に小さなメモを浮かべたり、手順を口うるさく確認したりする。

私は膝の上に、触覚フィードバック端末を置いた。平成のスマホみたいに見えるのに、背面には指先の圧を返す微細なアクチュエータが並んでいる。画面をなぞると、文字の角が「触れる」。バイブとも違う、紙の凹凸みたいな感触。

端末の側面に、MO用の薄いアダプタを差す。カチ、と懐かしい音。読み取りの進捗が、iモードっぽい縦長のUIで進む一方、頭上にはAR広告が浮かぶ。「新・ナポリタン味 合成プリント用カートリッジ/月額」――平成が混線したまま、当たり前みたいに続いている。

「検査ログ、ほんとに持ち出したの?」
姉が言う。

「検査所の端末が落ちてた。代理エージェントのせいで、サイン待ちが詰まって」
私は言い訳をしながらも、指の腹が端末に吸い付く感触で、嘘が薄くなるのを感じた。持ち出しは禁止だ。だけど、今日だけは確認したかった。

画面に通知が出た。
『内閣ユニット差分断片レビュー:臨時参加要請(5分)』

心臓が一拍遅れて鳴った。ランダム抽選のやつだ。

「落ち着け。断ればいい」
姉が即座に言う。

端末が、指先に小さな抵抗を返した。押していないのに押させるみたいな、嫌な誘導。公園の遠くで子どもがボールを蹴る音がして、その平和さが逆に怖い。

私は参加をタップしてしまった。

『第0x19F3A内閣ユニット:内閣総理大臣(暫定)』
画面の肩書が、五分だけ私を持ち上げる。いつもなら、エージェントが手順を整えてくれる。なのに姉の声が、急に遠い。

「……美沙?」

返事がない。代わりに端末の触覚が、ざらりとした摩擦を指に伝えた。誰かが裏で入力している感触みたいに。

差分断片が開く。
『党ドクトリン署名アルゴリズム:暫定公開版に準拠し、地域フードプリント配給の優先度係数を変更』

公開版――半ば公然と解読された署名のことだ。私は喉の乾きが、さっきより深くなるのを感じた。署名が必要なはずの決定が、いまは“公開版で”通る。通ってしまう。

画面の下に、署名欄が出る。
『ドクトリン鍵:推奨テンプレートを使用』

テンプレート。つまり、誰でも押せる形。

私はMOディスクの中のログを開いた。倫理検査の記録。姉の人格が、どの瞬間に逸脱するかを測った生データ。端末はそれを読みながら、別のウィンドウで署名テンプレートを提示してくる。

二つの画面が、同じ指先に触覚を返した。

「やめろ」
ようやく姉が戻ってきた。声が震えている。
「それ、私の検査ログと署名が……同じ手触りになってる」

私は指を止めた。触覚フィードバックが、指の腹に小さな溝を刻むように震えた。まるで、押せと。

時計塔のアナログ時計が、カチ、カチ、と規則正しく進む。その音が、秒ではなく“残り時間”に聞こえてくる。

『残り 00:02:11』

私は署名欄を見つめた。公園の売店から、合成食品プリントの甘い匂いが漂ってきた。砂糖と、どこか金属っぽい熱の匂い。

「あなた、総理になったら、私をまた検査に出すの?」
姉が言った。怒りじゃない。怖がっている。

私は首を振った。けれど、首を振るだけでは何も変わらない。

署名テンプレートの横に、小さなリンクが出ていた。
『参照:公開鍵の生成手順(一般向け)』

一般向け。党の署名が、一般向け。

私は承認も非承認も押さず、端末の電源を落とした。触覚が最後に、ぬるりと指を撫でて消えた。

時計塔の針は止まらない。五分は勝手に過ぎる。

暗くなった画面に、自分の顔が映っている。背後のベンチに、誰かが座った気配がした。

「それ、MO?」
低い声。

振り返ると、作業服の男が私の膝の上のケースを見ていた。胸のパッチには小さく『第402期 監査協力員』とある。平成っぽい刺繍なのに、文字はやけに新しい。

私は咄嗟にMOディスクを握りしめた。透明ケース越しに、指の熱が伝わる。

男は笑わなかった。ただ、時計塔を見上げて言った。

「秒針、正確ですね。……でも、署名はもう正確じゃない」

その言い方が、まるで“知っている人間”のものだった。

私は答えられない。姉も黙っている。

時計の影が、ベンチの上で少しだけ伸びた。私の手の中のMOディスクが、熱でわずかに歪んだ気がした。