光パケットの詰まり、真鍮色の朝
──平成0x29A年02月16日 08:20
平成0x29A年02月16日、午前08時20分。
第14通信インフラ・ブロックの地下、かつて「ゲームセンター」と呼ばれていた空間の片隅で、俺は光量子パケットのノードと格闘していた。脳波UIを同期させると、視界の隅に古いドット絵のようなステータスバーが浮かび上がる。
「お兄ちゃん、またパケットが渋滞してる。バレンタインの残響だってさ」
網膜に直接投影されたウィンドウの中で、妹の澪がくすくすと笑った。彼女は三年前、重粒子ガンの治療中に亡くなったが、今は俺のパーソナル・エージェントとして脳内に常駐している。法定倫理検査を先月パスしたばかりの、まだ『新鮮』な妹の人格だ。
「昨日が十五日だったからな。党ドクトリンが『義理チョコの返信メール』のトラフィックをエミュレートしやがったんだ。アルゴリズムが勝手に生成した虚無のパケットで、現実の通信が遅延するなんて冗談にもならない」
俺は溜息をつき、脳波UIで並列処理の優先順位を書き換える。耳の奥では、作業用BGMとして流している深夜ラジオ『オールナイト・ニッポン・アルゴリズム』が、解読不能なノイズ混じりのジョークを飛ばしていた。パーソナリティのAIは、三百年前に実在した芸人の喋り方をエミュレートしているらしいが、俺にはその面白さがさっぱり分からない。
「はい、これ。認証トークン」
澪がシステム上の手元に示したのは、真鍮色の小さな円盤だった。俺は作業服のポケットから、本物の「ゲームセンターのメダル」を取り出す。この拠点の物理認証キーは、なぜかこの古い金属片に暗号化されたハッシュ値が書き込まれている。党ドクトリンによれば、これが「平成的セキュリティの情緒」なのだという。
スロットにメダルを投入すると、チャリンという乾いた音が響き、コンソールが緑色に点灯した。第402ヘゲモニー期の署名アルゴリズムが走り、内閣ユニットの一つから承認の断片が届く。どこかの誰かが「総理大臣」としての五分間の義務を果たしたらしい。
「……完了。これで通信は正常化するはずだ」
視界の中で、デジタル円ウォレットの残高が微増した。チャリン、という不自然に強調された効果音が鳴る。九十年代の感性と、現代の暗号通貨が混ざり合った、この時代特有の不快な音だ。
「お疲れ様、お兄ちゃん。あ、そうだ。今のパケットの中身、少しだけ覗いちゃった」
澪がいたずらっぽく目を細める。エージェントによる秘匿通信の傍受は規約違反だが、彼女はそんなことを気にしない。
「みんな、似たような言葉を送り合ってる。『昨日はありがとう』とか『また今度遊びましょう』とか。中身は空っぽなのに、データだけは重たいの。まるでお兄ちゃんが昔、私にくれた手紙みたい」
「……そんなもん書いた覚えはないぞ」
「うそ。中学の卒業式のとき、机に入れてくれたじゃん」
作業を終え、地上へ続く階段を上りながら、俺は冷たい朝の空気を吸い込んだ。街角の大型ビジョンでは、平成風のファッションに身を包んだアバターたちが、存在しないドラマの宣伝をしている。遺伝子ネットワークが微かに震え、街全体が薄い「祝祭の予感」に包まれているが、人々は皆、無表情にスマートフォン(の形をしたウェアラブル端末)を眺めて歩いている。
「澪」
「なあに?」
出口の自動ドアが開く直前、俺は足を止めて、脳内の妹に呼びかけた。
「さっきの義理チョコの返信パケットだけどさ。あれ、実は俺も一通だけ混じらせたんだ」
「えっ、誰に? 彼女?」
「いや。お前にだよ。……実は生前、お前がバレンタインにくれた手作りチョコ、本当は一口も食べずに捨てたんだ。味がどうとかじゃなくて、単に恥ずかしかったから。それを、今の今までずっと黙ってた」
一瞬、脳内のノイズが止まった。
「……知ってるよ。ゴミ箱の一番下に入ってたの、お母さんが見つけてたもん」
澪の声は、深夜ラジオの終わりのように少しだけ寂しそうで、けれど確かに笑っていた。
「でも、今さらそんな告白されても、デジタル円のチップ一個もあげないからね。バカ兄貴」
視界のステータスバーが消え、俺のウォレットから一円だけが引かれた。手数料だか、彼女への慰謝料だかは分からない。平成0x29A年の朝は、相変わらず非効率で、ひどく寒かった。