現像袋の宛先不明

──平成0x29A年05月28日 18:20

夕方の空気が湿っぽい。電動カーゴの荷台に残った最後の三件を確認して、あたしはガラケーを開いた。

画面の左上に「18:20」。配達完了の目標まであと四十分。荷台のコンテナには、近傍通信タグが貼られた段ボールが二つと、薄い紙袋がひとつ。紙袋のほうは角が少し折れていて、表面に「DPE同時プリント」のロゴが見える。写真の現像袋だ。

「次、右折ね。三百メートル先の集合住宅」

イヤピースから声が聞こえる。姉ちゃんの声。正確には、三年前に川で溺れた姉ちゃんの人格を移したエージェント。生前と同じで、指示だけは的確なくせに余計な一言が多い。

「あんた、さっきの荷物の記憶補助ちゃんと更新した?」

「した」

「嘘。配達先の近傍タグ照合、二件目と三件目のプロファイルが昨日のまんまだよ。更新してないでしょ」

あたしは舌打ちした。記憶補助——配達員が使う受取人認証用の短期メモリ。毎朝の出庫前に最新のステータスを同期しておかないと、届け先の生体タグと照合できない。昨日、同期ボタンを押したはずだった。押した、と思う。

交差点の角に、半透明の公共ARサインが浮かんでいた。「第12物流ブロック管轄区域——速度遵守」。その下に小さく、何かの閣議決定番号が流れている。目を逸らした。

集合住宅の入口で電動カーゴを停めて、二件目の段ボールを下ろす。近傍タグをガラケーの赤外線ポートにかざす。

——照合不一致。

「ほら、言ったじゃん」

姉ちゃんの声が少し嬉しそうなのが腹立たしい。受取人のタグは最新なのに、あたしの端末が持ってる記憶補助が古い。つまり、あたし側の問題。

「手動照合に切り替える。名前と住所を読み上げて」

「岸本さん、C棟402。でもあんた、手動やると監査ログ残るよ」

「知ってる」

インターホンを押す。出てきたのは六十代くらいの女性で、段ボールの中身は猫砂だった。受領サインをガラケーの十字キーで入力してもらう。指がもたつく様子を見て、姉ちゃんが「あたしが生きてた頃のおばあちゃんみたい」と呟いた。あたしは無視した。

三件目。現像袋のほう。宛先のタグを読み込む。また不一致。だけど今度は手動照合すら通らない。宛先の部屋番号が、このブロックに存在しない。

「……姉ちゃん、これ」

「見てる。D棟507って、去年の区画再編で欠番になった部屋だね」

現像袋を裏返す。差出人の欄には、手書きで「よろしくお願いします」とだけ。写真屋の受付票が透けて見えた。撮影日のところに、ずいぶん古い日付が印字されている。

あたしの記憶補助が古かったから受け取れてしまった荷物だ。最新のデータなら、出庫時点で弾かれていたはず。

「持ち戻しだね」

「うん」

でも、あたしはしばらく現像袋を持ったまま立っていた。封のされていない口から、写真の端がほんの少しだけ覗いている。誰かの指先と、光。

存在しない部屋に届けるはずだった、誰かの記憶。

あたしの記憶補助が壊れていなかったら、この写真はどこへ行くはずだったんだろう。正しいシステムの中では、最初からなかったことになる荷物。

「……戻そう」

姉ちゃんが珍しく黙っていた。

ガラケーを畳んで、ポケットに入れた。現像袋を荷台の隅にそっと置く。電動カーゴが低い音を立てて動き出す。公共ARサインが「お疲れ様です」と表示を変えた。

持ち戻し伝票の備考欄に、何と書こうか考えながら走った。「届け先不在」でも「宛先不明」でもない、もっと正確な言葉があるはずだった。

でもたぶん、この制度にそんな欄はない。