金木犀のインクは乾かない

──平成0x29A年11月15日 01:10

深夜一時を回った「ステーション25」は、巨大な生き物の寝息みたいに静かだった。
蛍光灯の低い唸りと、九〇年代ヒットソングのオルゴールカバーだけが、だだっ広い店内に響いている。

「いらっしゃいませー」

客の気配を察して、僕は雑誌コーナーから駆け寄る。ギギ、と重い音を立ててガラスの自動ドアを手で引いた。コート姿の男が会釈して入ってくる。もう三時間、この調子だ。

《また申請がどこかで止まってるんじゃない? 第0x8A32F内閣ユニットあたりで》

頭の中で、沙耶が呆れたように言った。彼女の声は、僕の右耳のインプラントから鼓膜を直接震わせる。

「かもな」

僕は誰にともなく呟き、品出しの段ボールに戻った。自動ドアの故障申請は一週間前に出したはずだが、なしのつぶてだ。統治システムなんて、そんなものだ。

しばらくして、ようやく業者の男がやってきた。また手動でドアを開けてやる。
「どうも。で、サーバー室は?」
「バックヤードの奥です」

僕が案内しようとすると、業者は複合認証キーをかざしたまま首を傾げた。
「……あれ? 量子乱数ロックが応答しないな。サーバーごと落ちてます?」
《ほら、やっぱり》と沙耶が囁く。
結局、業者はバックヤードに入れず、ドアの駆動部に油を差す応急処置だけで引き上げることになった。

「じゃあ、これで。システムが不安定なんで、手書きで失礼します」

そう言って渡されたのは、懐かしい複写式の領収書だった。僕は「経費」と書かれた引き出しから、店長に預かっているシャチハタ印を取り出す。キャップを外し、受領印の欄にプラスチックの軽い感触と共にインクを押し付けた。
朱肉の代わりに内蔵インクを使うこのハンコは、古いようで新しい、奇妙な代物だ。

「ありがとうございましたー」

再び手動でドアを開けて業者を見送る。ドアはさっきより少しだけ軽くなった。
一人になった店内で、僕はふらりと香水ペンのコーナーへ向かった。ずらりと並んだテスター。女子高生が試し書きした紙に、色とりどりのインクと、様々な匂いが染み込んでいる。
その中の一つ、オレンジ色のインクから、金木犀の甘い香りがした。

《あ、それ》

沙耶が言った。

《私が好きだったやつだね。この匂い再現デバイス、精度高いなあ》

ああ、そうだった。秋になると、沙耶はいつも金木犀の香水をつけていた。山で滑落したあの日も、きっと。

僕はテスターを棚に戻し、自分の持ち場に戻ろうとした。すると、沙耶がふと黙り込む。いつもの軽口が途絶えると、店内の静寂が急に深くなった気がした。

「どうした?」

《……ねえ、譲くん》

少し間があって、彼女は静かに切り出した。

《あのね、私、時々思うんだ。もし、私が死ななくて、譲くんが先に死んでたら……私、エージェントになった譲くんと、うまくやっていけたかなって》

僕は足を止めた。オルゴールのメロディが、やけにゆっくりと聞こえる。

《私ね、たぶん無理だったと思う。生きてる譲くんじゃないと、きっとダメだった。……ごめんね、こんなシステムの一部になってる私が、こんなこと言って》

僕は何も答えられなかった。
ただ、まだ右手に残っているハンコの冷たい感触と、鼻の奥にかすかに届く金木犀のインクの匂いだけが、やけに生々しかった。