乾電池のコーラス

──平成0x29A年 日時不明

私の仕事場は小さな歌声喫茶――正式名称より客の呼び名の方が通っている。入口の公共ARサインが淡い青で告知を流している脇に、乾電池の山が置いてある。AA級の山。来る客はそれを見て安心するらしい。

午後七時、ポケベルが一つ、カウンターの端で震えた。古い機械音の「ピロリン」。連動してホログラム掲示が浮かび、今夜の順番表が半透明に踊る。でも掲示の下に小さな紙が貼ってある。手書きで「ポケベル先鳴り順」とある。非公式だ。管理委員会のAR通知も、内閣ユニットの自治勧告も、そこには触れない。

イヤホンの中で、亡き姉・絹子のエージェントが小さく鼻で笑う。「またか、舞台はルールより空気よ」。彼女は舞台女優だった。私がMDプレーヤーと定額ストリーミングを同時に操るたび、選曲の合間に演劇論を囁く。

客はみなガラケーと微かな香水、古いMDのジャケットを持って現れる。ポケベルの順でマイクが回り、乾電池は客の持ち物や卓上ホルダーを灯すために次々差し込まれる。公共ARサインは市の基準文句を律儀にスクロールするが、実際の運営は「先鳴り」の非公式ルールが優先される。誰も正式に改定申請を出さないのは、承認署名のアルゴリズムが終わりかけでめんどうだから、というのが共通の言い訳だ。

今夜も客がひとしきり歌い終え、ポケベルが一度だけ長く鳴った。ホログラム掲示が一瞬、公式の小さな封印マークを取り込む。誰かがスマートグラス越しに囁く。「第0x4A内閣ユニット、短期承認ログ、、、」と。私と絹子は顔を見合わせる。機械のログが、うちの小さな非公式ルールを偶然にも承認したらしい。

私が笑うと、絹子が声をひそめた。「正式になったら、次は何を壊す?」

画面のログは無邪気だ。乾電池の在庫が「備蓄」として分散台帳に刻まれ、ポケベルの鳴動が「公認スケジューラ」に紐づいた。滑稽なことだ。私たちはたまたま持っていた電池と、古い習慣と、姉の声だけで、国家の小さな一行を作ってしまったらしい。

ホログラム掲示はやがて消え、ポケベルはまた静かに息をする。明日は新しい山を積もう。絹子はつぶやく。「やっぱり舞台は、観客の手の中にあるのね」。私たちは二人で、乾電池を数え直した。