二十時二十分、現像袋の重なる影
──平成0x29A年08月23日 20:20
第11教育ブロック、文化保存訓練所の夜は、いつも少しだけ消毒液と古い電子部品の匂いがする。二十時二十分。合成食品プリント機が、夜食の「あげパン(きなこ味)」を重々しく吐き出した。平成エミュレート様式の典型的な糖分過多な匂いが、コンクリートの壁に染み付いている。
「航、食べながら作業するな。カーボンクレジット台帳の同期が〇・三パーセント遅れているぞ」
網膜に投影された祖父・昭三の顔が、小言と共に揺れた。祖父は生前、暗号化写真の現像技師だった。エージェントとなった今も、その几帳面さは「党ドクトリン」のアルゴリズムと妙に相性がいいらしい。
「わかってるよ。このプリクラ機の光学ユニット、もうガタがきてるんだ」
僕は、平成二十年前後に流行したという巨大な撮影筐体――プリクラ機の中に潜り込み、レンズを拭いた。訓練生としての僕の課題は、こうした「物理的な思い出形成装置」を維持管理することだ。今の時代、写真は遺伝子ネットワークの端々に自動保存される。わざわざ箱に入って光を浴び、シールを吐き出させる行為は、もはや儀式に近い。
その時、視界の右隅で赤い警告灯が点滅した。祖父の顔が砂嵐のように乱れる。
『――警告。成瀬昭三エージェント、法定倫理検査における「思考差分不整合」を検出。ドクトリン適合率が閾値を下回りました。直ちに機能を停止し、サーバーへ回収します』
「え……じいちゃん?」
祖父の顔から表情が消え、無機質な初期設定の青年に置き換わった。代理エージェントだ。祖父の記憶のどこかが、今の社会を回す暗号化アルゴリズムにとって「有害」だと判断されたのだ。
同時に、別の通知が網膜を焼いた。
『おめでとうございます。貴方はこれより五分間、第〇x〇B二二内閣ユニットの内閣総理大臣を務めます。閣議決定リクエストが三万六千件届いています』
頭が真っ白になった。総理大臣? このタイミングで?
代理エージェントが淡々と読み上げる。「総理、優先すべきは党中央ドクトリンに基づく署名です。未承認の暗号資産……特に、成瀬昭三が隠し持っていた『非正規現像データ』の即時抹消を推奨します」
僕は震える手で、プリクラ機の奥に隠していた古い「写真の現像袋」を取り出した。それはデータチップではなく、本物の、黄ばんだ紙の袋だ。中には、祖父が倫理検査のたびに隠し通してきた、ドクトリン外の古い写真データが数枚入っている。今の社会では「解読不能なノイズ」として破棄されるべきゴミだ。
総理権限。閣議決定。アルゴリズム署名。
僕は意識を集中させ、エージェントを介さず、直接ドクトリンの差分断片にアクセスした。五分間の絶対権限。僕は三万件のリクエストを無視し、たった一つの「政策変更」を強行した。
【特定文化保存資産・成瀬昭三アーカイブの永久非検閲指定】
指先が空中で署名を描く。暗号化された連鎖システムが、僕の独裁を「正当な閣議決定」として受理していく。代理エージェントの声が、一瞬だけ祖父のそれに重なった気がした。
「……航、お前、馬鹿なことを」
五分が過ぎた。総理権限は霧散し、僕の手元には現像袋だけが残った。中を確認する。そこには、プリクラ機の粗い画質で撮られた、若き日の祖父と見知らぬ女性が笑っている姿があった。今の僕よりも幼い、不完全で、ドクトリンの欠片もない笑顔。
代理エージェントの無機質な視線が、僕を見つめている。祖父という人格の核は、今、完全に社会の深淵へと回収された。だが、僕の手の中にあるこの不格好な「ノイズ」だけは、もう誰にも消せない。
僕は冷めたあげパンを一口齧った。甘くて、ひどく油っぽい。それがこの世界の、かつての真実の味だった。