父の地図、インクの滲むバイパス

──平成0x29A年01月16日 23:20

カビと湿ったコンクリートの匂いが鼻をつく。ヘッドライトの光が照らすのは、無数のケーブルが這う壁と、年代物のラックに収まったサーバー群。eペーパー端末に映る作業手順書は、この地下施設の埃っぽさとは不釣り合いなほど、くっきりと文字を浮かび上がらせていた。

『――第28セクター、遺伝子ネットワーク中継ノード7番。定期メンテナンスを開始します』

俺は、端末に向かって形式的に告げた。別に誰が聞いているわけでもない。ただ、ログに残るだけだ。

「亮。手順書のバージョン、また古いぞ。そこの物理ポートの形状が違う」

頭の中に、低く落ち着いた声が響く。親父だ。正確には、三年前に死んだ親父の人格を移植した、俺のエージェント。

「分かってるよ。毎回現場で修正してる」

俺は舌打ちしながら、指定されたポートではなく、その三つ隣の古びた端子に診断用のケーブルを差し込んだ。端末の画面が緑色の「認識完了」に変わる。こんな非効率が、もう何十年も放置されている。

小一時間ほど、単調な作業を続けた。チェック項目を一つずつ潰していく。大半は自動化されているが、この旧式ノードだけは物理的な接続確認が必須だった。
不意に、けたたましい警告音が鳴り響き、端末の画面が赤く点滅した。

【警告:暗号化署名プロトコル不一致。ドクトリン・ハッシュとの整合性が確認できません】

またか。最近、このエラーが頻発するようになっていた。党ドクトリンとかいう、誰もその正体を知らない統治アルゴリズムが、末端の設備にまでガタを来させている証拠だ。

「さて、どうするかな」

「慌てるな。いつもの手順で再同期を試せ」

親父の声に従い、端末を数回タップする。だが、結果は同じだった。赤い警告表示が、まるで俺をあざ笑うように点滅を繰り返す。

少し休憩だ。俺は工具箱の横に腰を下ろし、リュックから黒い筐体のポータブル機を取り出した。十字キーと四つのボタンがついた、懐かしいデザイン。PS2っていう、二百年以上前のゲーム機を模したものらしい。画面の中では、ポリゴンが粗いキャラクターが剣を振っている。セーブデータは、ジャケットに埋め込んだ近傍通信タグに触れるだけで同期される仕組みだ。

「そんなもので遊んでいる場合か」

「息抜きだよ。どうせマニュアル通りの手順じゃ直らないんだろ」

親父は黙り込んだ。沈黙は、肯定の合図だ。
しばらくして、諦めたような声がした。

「……亮。工具箱の一番底を見てみろ。ビニールで包んだ筒があるはずだ」

言われた通りに工具をかき分けると、手垢で黒ずんだビニールの筒が出てきた。中から取り出したのは、古びた紙のロール。広げると、それはこの施設の、手書きの配線図だった。

「紙の地図……? まだ持ってたのか」

「お前が生まれるもっと前から使ってる。eペーパーのマニュアルなんぞより、よっぽど信用できる」

地図には、細いペンで無数の書き込みがされていた。インクが滲んで読みにくい箇所もある。親父の、そしておそらくは、その前の世代の保守員の汗と油が染み込んだ歴史の塊だ。

「ノード7番の裏側、壁の点検パネルを開けろ。地図でいうと……B-4の区画だ」

ヘッドライトで壁を照らすと、ケーブルの束に隠れるようにして、古びた金属製のパネルがあった。マイナスドライバーでこじ開けると、複雑な端子盤が姿を現す。

「赤と緑のジャンパー線を抜け。そして、そこに書き込んである『予備A』と『予備C』の端子に差し替えろ。タグ認証は、俺が昔使ってた物理キーのIDで通す。お前のタグをパネルの隅にある紋章にかざせ」

それは、正規の手順書には一行も書かれていない作業だった。党ドクトリンの暗号化ネットワークを、物理的にバイパスする裏技。システムが生まれる前の、人間だけが知る抜け道。

俺は言われた通りに、細い線を抜き、差し替える。指先が少し震えた。最後に近傍通信タグをかざすと、カチリ、と小さなリレーの音がした。
eペーパー端末に目を戻す。激しく点滅していた赤い警告が消え、静かな緑色の「正常」表示に変わっていた。

「……終わった」

ログには『システム自己修復により正常化』とだけ記録されているだろう。この紙の地図も、親父の記憶も、ジャンパー線を差し替えた俺の指先の感触も、どこにも残らない。

俺は、インクが滲んだ地図をそっと巻き直した。親父が何十年も繰り返してきた作業。その記憶と技術は、今、俺の中に流れ込んできている。

「親父。この地図も、いつかは俺が誰かに……」

「そうだ」

親父の声は、いつもより少しだけ、優しく響いた。

「それが、俺たちの仕事だからな」

コンクリートの匂いに混じって、古い紙の匂いがした。それは、ログには残らない、切ない継承の匂いだった。