ガス管の忘れ物

──平成0x29A年 日時不明

俺はガスメーター検針の下請けを十年やってる。週に三日、古い団地を回って、各戸の玄関脇に貼られた検針票に量子署名を押していく。

今日は第二十七棟の三階。いつもの手順だ。ガラケーのiモード風UIで検針データを確認し、紙の検針票にハンコを押す。ハンコには量子署名チップが埋まっていて、押した瞬間に分散ストレージへ使用量が記録される仕組みだ。平成の名残と未来技術が同居している。

「304号室、使用量ゼロ。おかしいな」

イヤホンから母さんの声が聞こえた。亡くなって三年、今は俺のエージェントとして付き添ってくれている。元ガス会社の事務員だった母さんは、数字の異常にすぐ気づく。

「配管の故障かもな」

俺はインターホンを押した。応答なし。検針票を見ると、先月まではちゃんと使っていた形跡がある。

母さんが言う。「管理会社に連絡した方がいいわよ」

「まあ、そうだな」

俺は次の305号室へ移動しようとして、ふと足を止めた。玄関脇の小さな棚に、PS2が置いてあった。ディスクトレイが半開きで、埃を被っている。

「懐かしいわね。あなたもよく遊んでたじゃない」

母さんの声が優しい。そうだ、俺も中学の頃、毎日のようにPS2で遊んでいた。でも今、このゲーム機がここにある理由が分からない。玄関の外に、なぜ。

俺は管理会社に電話した。担当者は「ああ、304号室ね。三週間前に退去されました」と事務的に答えた。

「じゃあ、このPS2は?」

「さあ……忘れ物じゃないですかね。よくあるんですよ、引っ越しの時に置いていかれるの」

電話を切って、俺はもう一度PS2を見た。トレイの中には、ディスクが入っていた。ラベルには手書きで「思い出」と書かれている。

「データのバックアップかしら」と母さんが呟く。

俺は知っている。この時代、個人のデータは分散ストレージに保存される。PS2のディスクなんて、もう使われていない。でも、誰かがわざわざこのディスクに「思い出」と書いて、ここに残していった。

ふと、俺の端末に通知が来た。内閣ユニットの閣議決定だ。第0x7A3C2内閣が、ガス検針の量子署名プロトコルを5分間だけ承認した。俺の署名が、一瞬だけ公式記録として認められる。

母さんが言う。「あなた、今日は総理大臣ね」

「たった5分だけどな」

俺はPS2を手に取った。軽い。中のディスクも、たぶん空っぽだ。でも、誰かがこれを残した理由が、少しだけ分かる気がした。

「母さん、俺、このPS2、持って帰っていいかな」

「どうして?」

「分からないけど……なんとなく」

母さんは少し黙ってから、こう言った。

「いいと思うわ。あなたが大切にしてあげて」

俺はPS2を鞄に入れて、次の検針先へ向かった。玄関脇の検針票には、量子署名が静かに光っていた。