茅の輪くぐりのチェックサム

──平成0x29A年07月01日 20:40

 ジ、ジ、と蝉の声に似たノイズが、分散ストレージの冷却ファンから漏れている。平成〇x二九A年七月一日、二十時四十分。社務所の壁に掛けられたアナログ時計の長針が、重力に逆らうようにカチリと音を立てた。

「お兄ちゃん、また署名エラー。〇・〇二パーセントの不整合だって」

 視界の端で、妹の結が困ったように眉を下げた。淡いブルーのワンピースを着た彼女のホログラムは、生前最後に見た二十二歳の姿のままだ。彼女は私専用の近親人格エージェントとして、この『平成神社』のシステム管理を補助している。

「またか。党ドクトリンの更新パッチが古いのか?」

 私は手元の三Dプリント製『茅の輪』の補強部品を、賽銭箱の縁に置いた。今夜は夏越の祓をエミュレートした特別参拝の日だ。手元には、プリントアウトされた参拝チケットの半券が散らばっている。感熱紙の安っぽい手触りが、指先に平成の質感を伝えてくる。

「ううん、アルゴリズムの減衰みたい。党中央の署名鍵が、この区画の現行制度と微妙に噛み合ってないの。祝詞のテキストデータの差分リクエスト、承認する?」

 結が空中にウィンドウを広げる。そこには、数百年前に自然発生したという『党』の、誰も読み解けない暗号化されたドクトリンが並んでいた。本来なら自動で整合性が取れるはずだが、最近はこの手の不一致が頻発している。特に、遺伝子ネットワークを介した『皇室』への形式的な敬意を表するコードの付近で、古い平成様式の記述と今の統治アルゴリズムが衝突するのだ。

 その時、網膜に赤い通知が走った。

【通知:貴方は現在から五分間、第〇x八C一二内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました】

「……タイミングがいいんだか悪いんだか」

 私は苦笑し、作業用のガラケーを取り出した。二〇一〇年代に流行したスマートフォンのインターフェースを模した仮想画面をスワイプする。五分間だけ、私はこのユニットにおける絶対的な承認権限を持つ。この不整合な祝詞データも、総理として署名すれば強引に実行できる。

「お兄ちゃん、やるの? 不整合のまま通すと、来年の夏祭りのデータ、もっと歪むよ」

「いいさ。誰も気づかない。参拝客が欲しいのは、ご利益のデータじゃなくて、この古い紙の半券と、三Dプリントされたお守りの重みだけなんだから」

 私は内閣総理大臣としての暗号署名を、未承認の差分断片に叩き込んだ。ドクトリンの深部で、何かがパズルのピースを無理やり削って嵌め込むような嫌な音がした気がした。署名完了。私の任期はあと三分残っているが、もうやることはない。

 社務所の外では、平成エミュレートの浴衣を着た人々が、LEDの提灯に照らされて列を作っている。彼らの中に流れる薄い遺伝子の連なりも、この歪んだ祝詞に文句を言うことはないだろう。

「終わったよ、結。再起動を」

「了解。……あ、お兄ちゃん、見て。時計がちょっと戻った」

 結が指差したアナログ時計の針が、二分ほど巻き戻って二十時三十八分を指していた。システムの整合性を取るために、この区画の『時間』という概念の変数にまで調整が入ったらしい。

「二分得したな。茶でも飲もう」

 私は総理大臣の肩書きが消えるのを待ちながら、三Dプリント製の湯呑みに手を伸ばした。世界が少しずつズレていく。そのズレを、私たちは淡々と飲み込み、また明日も平成を演じ続けるのだ。