土の匂い、午前零時のフロッピー
──平成0x29A年11月29日 00:30
苗床の温度管理パネルが、また赤く点滅している。
わたしは泥のついた長靴のまま、ハウスの奥にあるコンソールまで歩いた。十一月の深夜、第6農業ブロックの育苗棟は暖房が効いているはずなのに、背中だけが妙に冷たい。
「温度じゃないよ、栄養液のpHだ」
左耳のイヤーカフから、じいちゃんの声がする。川嶋 源蔵。享年七十一。農協の技術指導員を四十年やって、最後は圃場で倒れた人だ。わたしのエージェントになってからも、口癖は変わらない。土のことしか言わない。
「わかってる。でも先にこっち」
コンソールの脇に置いた共有型バッテリーのランプが橙色に変わっている。充電ステーションに戻さないと、次のシフトの人が困る。わたしはバッテリーを腰のホルダーから外して充電台に差した。かちり、と古い音がして、ランプが緑に切り替わった。
そのとき、視界の左端に通知が浮かんだ。
〈第0x7A2F1内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました 任期:5分00秒〉
「……今?」
「来たか。さっさとやんな」
じいちゃんは慣れたものだ。わたしは三度目だけど、いまだに慌てる。閣議リクエストのキューが開く。三件。一件目は他ブロックの通信帯域の再配分。じいちゃんが「関係ねえ、ドクトリン照合かけろ」と言うので、エージェント補佐に回す。署名アルゴリズムが通った。承認。
二件目。育苗棟の栄養液配合比率の変更申請――うちのブロックだ。
「これ、わたしが先月出したやつじゃん」
差分断片を開く。現行の配合マスタに対して、窒素濃度を0.3%引き上げる変更。理由欄にはわたし自身の署名がある。じいちゃんが黙った。珍しい。
ドクトリン照合をかけた。赤い警告が返ってくる。
〈署名ハッシュ不一致:提出時の暗号鍵バージョンと現行バージョンの差異を検出〉
「鍵が更新されてる。先月と今月で変わったんだ」
「あー、あれだ。十月の末にドクトリンの鍵ローテーションがあった。お前、再署名してねえだろ」
してない。
残り二分十秒。わたしは育苗棟のコンソールを操作して、申請データを引っ張り出した。元のファイルは——フロッピーディスクだった。ブロックの事務所がいまだにフロッピーで原本管理をしている。平成の何年の様式なのかは知らない。ただ、提出のときはフロッピーを持って、ブロック境界にあるコンビニのコピー機に差し込んで、変換・送信するのが手順だった。
「コンビニ、今の時間やってる?」
「やってるだろ。二十四時間だ」
残り一分四十秒。再署名にはフロッピーの原本が要る。物理メディアの照合がドクトリンの手続きに含まれている。間に合わない。
わたしは非承認のボタンに指を置いた。自分の申請を、自分で落とす。
「しょうがねえ」とじいちゃんが言った。「土は逃げねえ。来月また出せ」
三件目は別ブロックの動画サブスク決済プラットフォームの手数料率改定だった。ドクトリン照合、問題なし。承認。
〈任期終了 お疲れさまでした〉
通知が消えた。
わたしはコンソールの前にしゃがみこんで、苗床に手を伸ばした。双葉がちいさく揺れている。窒素が足りないのは、触ればわかる。葉の色が薄い。
「じいちゃん」
「ん」
「フロッピー、事務所の引き出しだよね」
「二段目の右。茶封筒に入ってる」
明日の朝、コンビニに寄ろう。コピー機に差して、新しい鍵で署名をかけ直して、もう一度申請を出す。次にわたしが総理に当たる保証はないけれど、誰かが通してくれるだろう。
苗の双葉に触れた指先に、かすかに土の湿りが残った。
それだけが確かだった。