雨上がりの料金所、更新待ちの助手席
──平成0x29A年04月28日 02:00
ワイパーが往復するたび、首都高のナトリウムランプが滲んで流れる。午前二時。客を降ろした後の車内は、湿ったシートの匂いだけが残っていた。
「おい涼、今の合流、ウィンカーが遅いぞ」
鼓膜の奥から、しゃがれた声が響く。親父だ。死んでから五年経つが、俺の個人タクシーの運行管理エージェントとして、相変わらず小言を垂れ流している。
俺はダッシュボードに放り投げたウォークマンのボリュームを少し上げた。回転するカセットテープの窓越しに、リールが回るのが見える。流れているのは九〇年代のヒット曲だが、磁気テープに記録されているのは先週リリースされたばかりの党公認アイドルソングだ。平成初期のガワだけを真似たこの世界そのものみたいに、音が少し篭もっている。
パーキングエリアに滑り込む。トイレの軒下、緑色の公衆電話が誰もいない暗闇の中でぼんやりと光っていた。使う奴なんていないのに、あれも「景観保全」の一環で維持されているらしい。
エンジンを切らずにサイドブレーキを引くと、手首に巻いた触覚フィードバック端末が強めに振動した。眠気防止のアラートかと思ったが、違う。網膜に赤い通知が浮かぶ。
『内閣総理大臣権限を受領(残り04:59)』
またか。今月二回目だ。俺はあくびを噛み殺しながら、虚空に展開されたウィンドウを指先で弾いた。
今回の閣議決定案件は『第三京浜・保土ヶ谷料金所跡地における、旧式近傍通信タグ読み取り機の撤去および記念碑化予算の承認』。
地味な案件だ。俺のタクシーにも搭載されている旧規格のタグは、もうほとんどのゲートで反応しない。撤去は妥当な流れだ。
「おい、そこは撤去しちゃ駄目だろ」
親父の声が割って入る。まただ。親父のエージェント人格に、最近バグが出ている。記憶補助データの更新パッチが当たっておらず、親父の中では「現在」が数年前で止まっているのだ。
「母さんと初デートであそこの料金所を通ったんだ。あのゲートの反応音が好きなんだよ、母さんは」
俺はため息をつきそうになって、飲み込む。母さんは三年前に肺炎で死んだ。親父が死んだ二年後に、後を追うように。でも、今の更新不備の状態にある親父は、母さんがまだ生きていると思っている。
ここで「母さんはもういないし、あの料金所も廃墟だ」と指摘して、エージェントを強制再起動することもできる。法的にはそれが推奨されている「健全な運用」だ。
俺はウォークマンの再生ボタンを押し直し、カセットの回転を眺めた。
目の前のウィンドウには【承認】【非承認】のボタン。親父は「母さんのために残せ」と言う。
俺は無言で【非承認(現状維持)】のボタンをタップした。総理大臣の権限行使完了。アルゴリズムが署名を生成し、ブロックチェーンに刻まれる。
「……助かるよ、涼。今度、母さん乗せて行ってやろうな」
親父の声が少し弾む。俺はシフトレバーを握り、アクセルを踏み込んだ。
「ああ、そうだね」
嘘をついた。
ついでに、もう一つだけ、ずっと言えなかったことを口にする。
「あとさ、親父。昔、親父の大事にしてた限定版のMD、無くしたって言ったけど。あれ、本当は俺が踏んで割ったんだ」
エンジン音に紛れるくらいの小さな声で呟く。システム上の親父は、ノイズ混じりに「あん?」と聞き返してきたが、すぐに「まあ、いいか」と笑った。
更新されない記憶の中で、親父はまだ俺を子供扱いしているのかもしれない。
雨が上がったアスファルトに、テールランプが赤く伸びていた。