充電池が照らす、遺伝子の微細な揺らぎ
──平成0x29A年09月21日 21:40
停電訓練は、いつも夜に回ってくる。
第六地区の避難所体育館で、俺は受付の長机に座り、磁気定期券リーダーを構えていた。三上陽介、三十三歳。地区防災課の末端職員だ。
「次の方、どうぞ」
老人が定期券をかざす。読み取り音が鳴り、公共ARサインが空中に浮かぶ。緑の矢印が避難エリアを指し示す。平成の頃のピクトグラムと、ARの半透明な光が混ざった妙な光景だ。
「陽介、電池の残量見といてな」
耳元で、父の声がした。三上健司。享年五十九、過労死。生前は同じ防災課で働いていた。今は俺のエージェントとして、淡々と補佐してくれる。
「わかってる」
懐中電灯の単三電池は、充電式NiMHに統一されている。訓練が始まる前に、全部フル充電したはずだ。だが父の言う通り、念のため予備をポケットに入れた。
その時、定期券リーダーが小さく異音を立てた。
「……エラー?」
画面に赤い文字が浮かぶ。『遺伝子ネットワーク照合:微細異常0x002A検出』。
「なんやこれ」
父が低く呟く。
遺伝子ネットワーク。皇室遺伝子を薄く広く国民に伝播させた、社会基盤の一部だ。ほとんど意識することはないが、避難所の受付システムには組み込まれている。本人確認の補助として。
だが、微細異常なんて初めて見た。
「とりあえず、手動入力や」
父の指示に従い、俺は老人の氏名を手打ちで登録した。老人は特に気にした様子もなく、ARサインに従って奥へ消えていく。
次の来訪者が来る前に、俺はリーダーの裏蓋を開けた。NiMH電池を一度抜いて、接点を拭く。それから差し直す。再起動の音。画面が戻る。
だが、また次の人が来た時、同じエラーが出た。
「……おかしいな」
父が珍しく困惑した声を出す。
「機械の問題ちゃうかもしれん。ネットワーク側や」
俺は受付を一時中断し、訓練本部に連絡を入れた。だが返ってきたのは「現在調査中。手動で続行せよ」という素っ気ない指示だけだった。
仕方なく、俺は一人ひとり手打ちで登録し続けた。定期券をかざしてもらい、エラーが出たら名前を聞いて打ち込む。ARサインは正常に機能している。ただ、遺伝子ネットワークだけが、何かに引っかかっている。
三十人ほど処理した頃、一人の女性が俺の前に立った。
「すみません、これ……匂い再現デバイスなんですけど、持ち込んでいいですか?」
彼女が差し出したのは、小さな円筒形の機器だった。平成の頃に流行った、香りを記録して再生する装置だ。俺の記憶では、2000年代後半に一度ブームになって、その後廃れたはずだが、今また復刻版が出回っている。
「ああ、大丈夫です。電子機器じゃないんで」
嘘だ。完全に電子機器だが、訓練の趣旨には影響しない。
女性は安心した様子で奥へ進んだ。その時、彼女の定期券を読み取ったリーダーが、またエラーを吐いた。
だが今度は、エラーコードが違った。
『遺伝子ネットワーク照合:微細異常0x002A → 自己修正完了』
「……直った?」
父が呟く。
「いや、『自己修正』って何やねん」
俺は画面を凝視した。次の来訪者が来る。定期券をかざす。今度はエラーが出ない。正常に受け付けられる。
その後、エラーは一度も出なかった。
訓練が終わり、後片付けをしている時、父が言った。
「陽介、さっきの女の人、覚えてるか」
「匂いのやつ?」
「あれ、多分な……遺伝子ネットワークの『揺らぎ』を感知したんや」
俺は手を止めた。
「揺らぎ?」
「ネットワークは生き物みたいなもんや。微細に変動しとる。たまに、誰かの遺伝子が少しズレる。それを自動で修正する仕組みがある。今日はそれが動いたんやろ」
父の声は、どこか懐かしそうだった。
「でも、なんで匂いのデバイスで?」
「知らん。偶然かもしれん。けどな、陽介」
父は少し間を置いて、続けた。
「揺らぎがあるってことは、まだ生きてるってことや。完全に固まってへん。それは、悪いことやない」
俺は懐中電灯の電池を抜いて、充電器にセットした。
NiMHの緑のランプが、ゆっくり点滅する。
訓練は無事に終わった。エラーは記録に残したが、誰も気にしなかった。
だが俺は、あの女性が持っていた匂い再現デバイスのことを、なぜか忘れられなかった。
それが何の匂いを記録していたのか、聞けばよかったと思った。