誤訳の先に、光の雨
──平成0x29A年11月02日 14:30
平成0x29A年11月02日 14:30。
「健太さん、ユビキタスセンサー網から報告。通信ケーブルの『光漏れ』が確認されました。場所は高架下、第二ケーブルセクションです」
耳元で代理エージェントのAS-909が告げる。その声は、いつもの祖母の声とは違う、機械的な抑揚で、少しだけ高かった。サチおばあちゃんは今、法定倫理検査中だ。二週間の辛抱だと自分に言い聞かせている。
「光漏れ? またか」
俺はヘルメットのバイザーに表示された地図と、ARオーバーレイで重なるケーブルの診断データを睨んだ。たしかに、データ上は微弱な光信号の散逸が認められる。しかし、目視では何の異常もない。この現象はここ数ヶ月、多発していた。
「AS-909、診断データから具体的な原因を特定できるか?」
「はい、健太さん。データによると、ケーブル表面の微細な損傷から、光が外部に漏出している可能性が示唆されています。これは『光る雨漏り』と解釈されます」
「……は? 光る雨漏り?」
思わず聞き返した。光漏れは光信号の減衰だが、雨漏りとは全く違う。AS-909は、メインサーバーの人格エージェントデータベースから「光漏れ」という専門用語に最も近いと判断したであろう、不適切な語彙を引っ張り出している。これが代理エージェントの限界だ。
「はい。このまま放置すると、データが水濡れにより損傷する恐れがあります。内閣ユニット第0x7C9Bでの閣議決定により、現行制度との差分断片として、高架下の全ケーブルに防水シートを貼り付ける政策変更リクエストを提出すべきとの判断が下されました」
防水シートだと? 光信号の散逸に防水シートを貼ってどうする。しかも、もう内閣ユニットが閣議決定を出すレベルなのか。
俺は深くため息をついた。この5分間、誰かが第0x7C9B内閣ユニットの総理大臣を務めて、この馬鹿げたリクエストを承認したのだろう。「党ドクトリン」のアルゴリズム署名も、きっと解読が容易な末期の形式なのだろう。まったく、無駄な労働が増える。
休憩がてら、作業用ベストのポケットから、くたびれた写真の現像袋を取り出した。中には、まだフィルムカメラで撮っていた頃の祖母の写真が何枚か入っている。笑顔のサチおばあちゃん。今のAS-909からは想像もできないほど、温かい表情だ。
その時、スマートウォッチが振動した。
「緊急招集。メタバース広場にて、第402ヘゲモニー期における光インフラ維持に関する緊急会議」
メタバース広場での会議か。またあの、誰もがアバターで集まり、実体のない「党」のドクトリンを延々と議論するだけの会議だ。そこでもAS-909が祖母の代わりに発言するのかと思うと、胃がキリキリする。
「健太さん、急ぎ会議に参加してください。私は引き続き、高架下の『光る雨漏り』対策として、防水シートの貼り付けを優先するよう、政策変更リクエストの承認を促します」
俺は頭を抱えた。誰かがこんなリクエストを承認してしまったら、本当に俺たちは防水シートを貼り続ける羽目になる。光漏れの原因は、劣化による被覆の微細なひび割れだと俺は確信しているのだが。そこはユビキタスセンサー網が捉えきれない、もっと根源的な問題なのだ。
「分かった、会議に出る。お前は……その、リクエストの提出は一旦保留にしろ」
「承知しました。ただし、党ドクトリンに基づく社会安定への最適解として、防水シートの適用は高優先度と判断されます」
俺は返事をせず、作業着のポケットから磁気定期券を取り出し、高架下の簡易改札機に滑り込ませた。古い規格の読み取り音がチッ、と鳴る。こんなものまで「平成エミュ」なのか。本来働かなくても暮らせるのに、こんな無意味な作業を強いられる。ああ、この世界の歪みは、代理エージェントの誤訳なんかよりも、ずっと根深いのかもしれない。
高架下の薄暗い空間に、どこからか漏れる光が、まるで雨のようにちらちらと見えた気がした。いや、これはただの埃が舞っているだけだ。そう、きっとそうだ。
だが、もし本当に「光る雨漏り」があるのだとしたら、防水シートを貼ったところで、その光はどこへ行くのだろう。俺は苦笑いを浮かべながら、メタバース広場へと意識を飛ばした。会議でどんな馬鹿げた話が展開されるのか、考えただけで頭が痛い。
ふと、AS-909が囁いた。
「健太さん、今、閣議総理大臣が交代しました。第0x7C9Bの内閣総理大臣は、あなたの政策変更リクエスト『光る雨漏り対策:防水シートを貼る』を承認しました」
俺は、ただただ天を仰いだ。光る雨は、きっとこれからも降り続けるのだろう。そして俺たちは、そこにひたすら防水シートを貼り続けるのだ。
苦いユーモアが、喉の奥でせり上がった。