母の検索窓

──平成0x29A年02月25日 23:00

研究室のスマートドアは、僕の網膜パターンを認識しようともせず、沈黙を貫いていた。

『共有バッテリー、残量ゼロです』

無機質な合成音声が、静かな廊下に響く。壁のステーションを覗くと、案の定、全てのソケットが空だった。誰かが最後の一個を持って行ったらしい。僕はため息をつき、ポケットから旧式の物理キーを取り出して、重い金属の扉をこじ開けた。

時刻は午後十一時を回っている。雑然としたデスクの上には、飲みかけの栄養ドリンクと、今日の昼間にカフェで受け取った手書きの領収書が置かれていた。

「母さん、経費精算を手伝ってくれ。この領収書、スキャンして申請しておいて」

僕が言うと、手元の端末からホログラムが立ち上り、母の姿を形作った。穏やかな笑みを浮かべた、生前と変わらない母のエージェントだ。

『はい、翔。……あら、これは?』

母は、僕が差し出した感熱紙の領収書を不思議そうに眺めた。

『手書きの領収書なんて、懐かしいわね。これは、何に使うものなの?』

その言葉に、僕はディスプレイから顔を上げた。またか。

先週適用した記憶補助の更新パッチが、うまく機能していない。最近の出来事や手続きの記憶が、古いデータと混線し始めている。

「経費精算だよ。いつもやってるだろう」

『経費……そう。わかったわ』

納得したのかどうか、母はホログラムの指先で宙をなぞり始めた。彼女の視線の先には、僕には見えないウィンドウが開いている。だが、そのインターフェースは明らかに古かった。四角いボタンが並んだ、チープなピクセルアートのアイコン。

『ええと、たしか公式サイトから……』

母の検索窓に表示されたのは、僕が子供の頃に見たことがあるような、iモードサイトの残骸だった。当然、リンクはとっくに切れている。

「母さん、そのサイトはもう三十年以上前に閉鎖されてる。申請システムはこっちのプラットフォームだ」

僕は自分の端末の画面を指差す。母はきょとんとした顔で僕を見た。彼女の中で、図書館の蔵書カードを整理していた記憶と、最新の経費精算システムの知識がせめぎ合っているのだろう。

ログを遡ると、原因はすぐにわかった。例によって、先週の内閣ユニット第0x8C3A7号による『ネットワーク帯域の最適化に関する緊急ドクトリン』のせいだ。党のアルゴリズムが発した気まぐれな命令一つで、僕の研究室に届くはずだった更新パッチの一部が欠損していた。再申請の順番待ちは、天文学的な数になっている。

『あら、そうなの。じゃあ、この『但し書き』はどう書けばいいのかしら。品代? それとも……』

母はまだ、手の中の仮想領収書と格闘している。

僕はもう何も言わず、自分で申請システムを立ち上げた。欠損したパッチ、エラーログ、そして母の混乱。これら全てが、僕の研究データだ。この不具合も、システムの歪みも、ただ記録し、分析するしかない。

諦めて、領収書の但し書きの欄に、僕はスタイラスペンで『実験用思考誘発剤(カフェイン飲料)代として』と書き加えた。それをスキャナに置く。

スキャナの光が走るのを見て、母のエージェントがふと、僕の手元に視線を落とした。

『あら、達筆ね、翔。昔、あなたに習字を習わせておいて、本当によかったわ』

その記憶は、欠損せずに残っているらしい。母は、満足そうに微笑んだ。

僕は何も答えず、ただ送信ボタンを押した。静かな研究室に、申請完了の電子音が小さく響いた。