午前三時のVHSと脳波

──平成0x29A年04月28日 03:40

午前三時四十分。誰もいないはずの「記録保管センター」に、俺と父さんだけがいた。正確には、俺の脳内コンソールと、そこに常駐する父さんのエージェントが、だ。

「徹、集中しなさい。こんな時間に、いつもの差分申請とは毛色の違うリクエストが来るなんて、何かあるぞ」

脳波UIを通して、父さんの声が直接脳に響く。父さん、隆は生前、紙の契約書を扱う会計事務所の所長だった。その几帳面な性格は、エージェントになっても変わらない。深夜の単調な作業は、いつもiPodから流れる平成初期のシティポップでごまかしていたが、父さんの声はそれを貫通してくる。

『緊急度:高。第7金融ブロックより。政策変更リクエスト「アナログ記録保存の最適化に関する差分断片」をレビューせよ。第402ヘゲモニー期、中央ドクトリンに基づく署名確認済み。』

脳波コンソールのディスプレイに、リクエストの概要が流れる。中央ドクトリンに基づく署名、か。最近はあのアルゴリズムも、ずいぶん隙間だらけだと聞く。この「アナログ記録保存の最適化」という文言自体、妙な違和感があった。

「アナログ記録の最適化、ねえ。デジタル化がすべてのはずが、今さら何を最適化するんだ?」

俺が疑問を口にすると、父さんは得意げに鼻を鳴らした。
「馬鹿だな、徹。世の中には、デジタルでは捉えきれない『重み』というものがあるんだ。紙の契約書しかり、写真しかり。それが今、見直されているのかもしれない」

リクエストの詳細を見ると、過去の特定条件下での「非デジタル記録」を検証し、その保存意義を再評価せよ、とある。対象は特に「映像媒体」。つまり、VHSテープやレーザーディスクといった、もはや過去の遺物とされる記録媒体だ。センターの奥深く、埃を被った区画へと足を向けた。

「まさか、こんな時に父さんの経験が役立つとはな」
「当たり前だ。お前はすぐ何でもデジタルで片付けようとするからな。探せ、徹。お前が産まれるずっと前の、時代の空気を吸っていた機材がどこかにあるはずだ」

倉庫の片隅、錆び付いたロッカーの奥から、古いVHSデッキを見つけた。電源を入れても、うんともすんとも言わない。何台か試してようやく動くものを見つけ、ノイズだらけの画面に息を呑んだ。探していた契約の証拠、古い不動産取引の立会人記録がそこにあった。

画面に映っていたのは、荒い画質の中で、小さな町の公証人が、震える手で紙の書類に署名し、印鑑を押す姿だった。その横には、やけに緊張した面持ちの若い男女が座っている。彼らの息遣いまでが、ノイズ混じりの音声から伝わってくるようだった。

父さんのエージェントが静かに言った。「あの頃は、ひとつひとつの行為に、もっと重みがあった。やり直しがきかない、という覚悟がな」

俺は、ふと自分のデジタル円ウォレットに残高確認の通知が来たことを思い出した。今回の深夜業務の報酬だ。指一本で完了する取引。便利で、高速で、効率的。それは疑いようのない事実だ。

だが、このVHSテープに記録された、不鮮明でノイズだらけの映像は、その効率性の対極にある。汗をかき、声を震わせ、ペンを走らせた人々の生々しい痕跡。そこには、ただのデータでは伝わらない、確かな「当事者の意志」が宿っていた。

このアナログ記録の復権を求めるリクエストは、単なる懐古主義ではない。現代の、あまりに流動的で不確かな統治システムが、過去の「重み」に答えを求めているのかもしれない。脳波UIで承認ボタンを押しながら、俺は静かに、その時代の深い歪みの一端に触れたような気がした。

古いテープのざらついた質感が、指先に残るような感覚がした。それは、もう二度と触れることのない、遠い日の父の手のひらの記憶と重なるようだった。