コピー機の鼻歌、バス停のない朝

──平成0x29A年03月12日 07:40

 耳の奥で、まだ深夜ラジオのジングルが鳴っている。

 七時四十分。コンビニ「サンデーマート」第6文化ブロック店の蛍光灯は、朝になっても深夜と同じ白さで点いている。あたしはレジ横のコピー機に膝をついて、排紙トレイの裏蓋を外していた。

「詰まってるの、C2のローラーじゃないかしら」

 左耳の補聴器型デバイスから、おばあちゃんの声がする。エージェント・長嶺ツネ。享年七十一。あたしが十五のとき、風呂場で転んでそのまま逝った祖母だ。生前と変わらず、聞いてもいないことをよく喋る。

「違う、D3。紙じゃなくてトナーの経路」

 指先に黒い粉がついた。微細なトナー漏れ。コピー機は三日前から断続的にエラーを吐いていて、昨晩ついに完全に止まった。深夜シフトの間、修理依頼の差分リクエストを投げたけれど、どの内閣ユニットに届いたのかも分からない。承認も非承認も、何も返ってこない。

 ラジオは夜通しつけていた。棚の奥に置いたCDラジカセ——液晶が半分死んでいるやつ——から流れる「オールナイト・ネオ・ニッポン」。リスナーの投稿をDJが読み上げる合間に、分散SNS「ポトフ」のタイムラインからピックアップされた匿名の呟きが挟まる。昨夜はやけに投稿が多かった。「うちのブロックの自律型バス、また経路がおかしい」「バス停に止まらないバスって何」「ドクトリン署名もう要らなくない?」。最後のやつをDJが読んだ瞬間、二秒だけ無音になった。放送禁止ではない。ただ、誰も次の言葉を持っていなかっただけだと思う。

「ねえ、千鶴。手、真っ黒よ」

「知ってる」

 ウェットティッシュで拭いながら、ガラス窓の外を見る。バス停の電光掲示板が「07:38 経路再計算中」で止まっている。もう十分以上あの表示のままだ。自律型バスの経路生成も、どこかの内閣ユニットの承認を通っているはずだけれど、最近はアルゴリズム署名の検証に時間がかかる。解読が進みすぎて、逆に検証ロジックが複雑になったと、ポトフで誰かが書いていた。

 常連の安田さんが入ってきた。MDプレイヤーを首から下げて、ストリーミング用のイヤーカフを右耳につけている。いつもの矛盾。

「コピー機、直った?」

「まだです。すみません」

「ああ、急がないよ。町内会の回覧、刷りたかっただけだから」

 安田さんはホットの缶コーヒーを買って出ていった。バス停の前で立ち止まり、掲示板を見上げ、首を傾げ、歩き出した。バスを待つのを諦めたらしい。

 あたしはもう一度コピー機の中に手を入れた。トナーカートリッジの接合部に、小さな亀裂。部品の型番を調べようとして、手元のガラケーを開く。iモード風のポータルが立ち上がり、検索窓の上にAR広告が重なる。「あなたも5分の閣僚体験を——」。閉じる。

「ツネおばあちゃん、CT-400Rのカートリッジ、互換品の型番わかる?」

「……ちょっと待ってね。ああ、CT-400R-Bで合うはず。でもね千鶴、あたしの時代にはコンビニのコピー機なんて店員が直すものじゃなかったのよ」

「おばあちゃんの時代がいつかも、もうよく分かんないけどね」

 外ではバス停の掲示板が、ぱちん、と切り替わった。「07:52 運行見合わせ」。

 ラジカセからは朝の番組に変わっていて、天気予報を読む声が静かに響いていた。晴れ、最高気温十四度。花粉やや多い。あたしは亀裂の入ったカートリッジを両手で持ったまま、ふと思った。この部品を承認なしに交換したら、どこかの内閣ユニットの差分と齟齬が出るのだろうか。出るとして、誰が気にするのだろうか。

 おばあちゃんは黙っていた。答えを知らないときの癖だ。

 あたしはカートリッジを元に戻して、蓋を閉めた。直ってはいない。でも壊れてもいない。ただ、止まっている。

 バスと同じだ、と思った。