端子の錆と、透明な雨宿り

──平成0x29A年01月14日 06:10

 午前六時十分。自動ドアが開く音と同時に、湿った風がロビーに滑り込んできた。
 第3観光区の老舗旅館「翠月」の朝は早い。フロントの奥にある厨房では、業務用の大型プリンターが唸りを上げている。合成食品プリント特有の、焦げた醤油の匂いを模した香料インクが鼻をつく。今日の朝食は「アジの開き定食」らしい。データ上の骨まで再現された、カルシウム配合の造形物だ。

「おい、兄ちゃん。また止まったぞ」
 カウンターに乱暴に置かれたのは、灰色のカートリッジだった。スーパーファミコンのソフトだ。当館の売りである「平成ノスタルジー体験」の一環として客室に設置している実機だが、経年劣化には勝てない。
「申し訳ございません。端子の接触が悪くて……」
 私が綿棒を取り出そうとした瞬間、視界の端に赤い警告灯が灯った。

『認証:第402ヘゲモニー期、第8922内閣ユニット総理大臣権限、委譲開始』

 またか。よりによってこの忙しい早朝に。
 脳内で、祖母の声が響く。
『健一、背筋が曲がっとるよ。総理だろうが何だろうが、お客様の前や』
 私のエージェントである祖母・トミは、生前この宿の大女将だった。死してなお、その厳しい視線は私の網膜共有ディスプレイを通して手元を監視している。

 目の前の宿泊客は、苛立ちを隠そうともせずに指先でカウンターを叩いていた。彼の肩には、ゴルフボールほどの大きさのAI秘書が浮遊している。青白い光を放つその球体は、私の対応速度を計測し、クレームを入れるべきタイミングを計算しているのだろう。

 私の視界には、現実の光景に重なるようにして、半透明の閣議ウィンドウが展開された。
 政策変更リクエスト:『第3観光区における石油化学由来雨具(ビニール傘)の提供禁止および、生分解性フードへの強制移行』。
 提案者は環境負荷低減アルゴリズム。承認すれば、旅館の玄関にあるビニール傘はすべて産業廃棄物扱いとなり、即時撤去が義務付けられる。

「で、どうすんだよこれ。セーブデータ、消えてないだろうな」
 客がカートリッジを指差す。
「確認いたします。……あいにく外は雨ですので、お出かけの際は傘をお持ちください」
 私は言葉を濁しながら、意識を閣議ウィンドウに向ける。党ドクトリンの照合結果は『承認推奨98%』。合理的だ。あの壊れやすい透明な傘は、資源の無駄でしかない。

 AI秘書が無機質な声で客に囁いた。
『外気湿度は上昇中。当宿の対応評価、星1つへの修正を推奨します』
 客が舌打ちをする。

『粋じゃないねえ』祖母が鼻を鳴らした。
『ビニール傘ってのはね、誰のものでもない、天下の回りものさ。ああいう安っぽいもんを、気兼ねなく貸してやるのが宿の情けってもんだよ』

 私は息を吐き、カウンターの下にある接点復活剤をカートリッジの端子に吹きかけた。独特の揮発臭が、合成食品の醤油の匂いと混ざり合う。
 そして、脳内のウィンドウで「非承認」のボタンを強く睨みつけた。
 理由入力欄には、定型文ではなく手入力で『文化様式の維持』とだけ打ち込む。

 総理大臣の権限が終了するのと同時に、私は磨き上げたカートリッジと、玄関脇から取ってきたビニール傘を客に差し出した。
「データは無事かと。それと、こちらをどうぞ。返却は不要です」

 客は私の顔と傘を交互に見て、少しだけ表情を緩めた。
「……助かるよ。AIの予報だと、止むのは昼過ぎらしいからな」
 AI秘書が不服そうに明滅したが、客はそれを手で制して傘を受け取った。

 自動ドアが閉まり、客の背中が雨の向こうに消えていく。ビニール傘が開く、バサッという鈍い音が微かに聞こえた。
 手元には、接点復活剤で少し湿った綿棒が残されている。錆びた金属の汚れが、茶色く滲んでいた。
 世界を少しだけ非効率なままにしたその汚れを、私はゴミ箱へと捨てた。