真鍮の重み、磁気テープの震え
──平成0x29A年04月14日 13:00
平成0x29A年4月14日、13時。第17居住ブロックの空気は、エミュレートされた春の陽気で満ちていた。
「拓海、またセンサーダストが詰まってる。あんた、掃除サボったでしょ」
耳の奥で、姉の遥の声が響く。22歳で逝った彼女の人格エージェントは、いつだって僕の不手際を見つけるのが早すぎる。視界の端、ARウィンドウに表示された浮遊センサーの密度グラフが、エントランス付近で真っ赤にアラートを吐いていた。光ファイバーを擬似的に模した街灯の影で、微細なセンサーの塵が、春の埃のようにキラキラと滞留している。
僕は腰に下げた「家の鍵の束」をジャラリと鳴らした。党ドクトリンが定める『平成的生活様式』に基づき、管理人はこの重たくて無意味な真鍮の塊を携帯する義務がある。実際には指紋と遺伝子ネットワークで全自動開錠されるというのに、この無駄な重みだけが僕の職業的なアイデンティティだった。
「わかってるよ。物流ロボが巻き上げたんだろ」
エントランスへ向かうと、案の定、三輪走行の物流用群ロボットが数台、玄関先で右往左往していた。彼らが運んでいるのは、90年代風の派手なロゴが入ったスニーカーや、過剰に包装されたインスタント食品だ。ロボットの一台が、住人の佐藤さんの足元に突っかかっている。
佐藤さんは、このアパートで最も「遺伝子ネットワーク」の希薄な老人だ。皇室由来の共通コードが薄すぎて、時折システムが彼を障害物として誤認する。今もセンサーダストが彼の周囲で渦を巻き、警報を鳴らしていた。
『警告:未登録の動体。排除シーケンスを開始します』
iモード風のUIを備えた僕の携帯端末が、無機質な通知を弾き出す。
「ちょっと拓海、早くしなさいよ。第0x88A内閣ユニットに差分リクエストが飛んだわ。あと3分で閣議承認が降りちゃう。そうなったら治安維持ドクトリンが発動して、このおじいさん、強制再教育行きよ」
遥が急かす。僕は駆け寄り、物流ロボットの電源を物理スイッチで切った。佐藤さんは呆然と立ち尽くし、手の中にあった「カセットテープ」を落とした。プラスチックの乾いた音が響く。
「大丈夫ですよ、佐藤さん。今、手動で照合を上書きしますから」
僕は端末を操作し、管理権限を行使してセンサーの判定を「静止物」へと強引に書き換える。党のアルゴリズムは末期症状で、こうした「身分と権限の誤照合」は日常茶飯事だ。適当な暗号キーを入力し、内閣ユニットの5分間総理が適当に署名するのを待つ。幸い、今の総理はどこかの面倒くさがりな会社員だったらしく、リクエストは即座に受理された。
「……これ、拾ってくれるかい」
佐藤さんが震える指でカセットテープを指差した。透明なケースの中、磁気テープが不器用に巻かれている。今どき、平成エミュの愛好家でも珍しい骨董品だ。
「大事なものなんですか?」
拾い上げると、テープのラベルには手書きの、ひどく掠れた文字で『平成8年 家族の記録』と書かれていた。佐藤さんはそれを愛おしそうに受け取ると、カチリ、カチリと家の鍵の束を弄る僕の指先を寂しそうに見つめた。
「中身はもう、ただのノイズなんだがね。でも、持っていると、この真鍮の鍵みたいに、自分がここにいたっていう重みだけは感じるんだよ」
センサーダストが風に舞い、佐藤さんの輪郭を一瞬だけ曖昧に透過させた。システム上、彼は存在しないはずの「差分」になりかけている。姉の遥が、「ねえ、その人、本当に佐藤さん?」と疑わしげに囁いた。
僕は答えず、重い鍵の束を握り直した。掌に食い込む真鍮の冷たさだけが、この薄っぺらなエミュレートの世界で、唯一の確かな手触りだった。