融通されるピクセル

──平成0x29A年 日時不明

佐藤さんの部屋は、夕暮れの光が埃を照らす、静かな洞窟のようだった。
「カートリッジ、もう空っぽなんだよ」
彼女は合成食品プリンターの排出口を、皺の多い指でそっと撫でた。ディスプレイには『認証エラー:権限を確認できません』の赤い文字が点滅している。ここ数日、ずっとこれだ。

『健太、こりゃシステムの不具合だろ。とっととセンターに戻ってなんとかしろ』
網膜に浮かぶ半透明のウィンドウで、祖父さんが腕を組む。旋盤の油で汚れた作業着姿は、死んだあの頃のままだ。
「わかってるよ、爺ちゃん」
俺は頷き、佐藤さんに「必ずなんとかしますから」と力なく約束して、彼女の部屋を出た。

省電力マイクログリッドで辛うじて灯る廊下は薄暗い。この集合住宅全体が、巨大なシステムから見捨てられた孤島のようだった。広域で発生したとかいう記録欠損のせいで、佐藤さんのような人が何人も出ている。市民IDが台帳と照合できず、存在しないことになっているのだ。

センターに戻り、自分の端末に向かう。権限回復の差分リクエストを何度送っても、『第0x4A3E内閣ユニット:ドクトリン署名不一致により棄却』の通知が返ってくるだけ。党のアルゴリズムは、記録の穴を不正としか認識しないらしい。

『だから言ったろ。機械に頼るからこうなる。昔みてえに、偉いさんのとこ行って頭でも下げてこい』
「そんな偉いさん、もうどこにもいないんだよ」
俺はディスプレイを睨んだまま、呟きで返した。

苛立ち紛れに席を立ち、給湯室へ向かう途中、壁の町内会掲示板が目に入った。回覧板の告知、資源ゴミの収集日、それから色褪せた『災害時におけるマイクログリッド電力及びデータの相互融通に関する協定』という古い貼り紙。いつの時代のものだか。
隣の娯楽室からは、子どもたちの歓声が聞こえていた。覗くと、数人が旧式のゲーム機に群がっている。黒くて角張った、PS2とかいうやつだ。有線のコントローラーがごちゃごちゃに絡まりながら、ブラウン管のテレビに繋がっている。それでも、あの中では確実に世界が成立している。

――相互融通。ローカルな接続。

何かが頭の中で繋がった。俺は急いで自席に戻る。
正規の福祉権限がダメなら、別の権限を使えばいい。俺は新しい差分リクエストのフォームを開いた。
申請区分を『福祉ブロック市民権限』から、『緑町3丁目町内会員権限』に書き換える。申請内容は『佐藤タキ氏の食品プリントデータへのアクセス権限を、隣接する鈴木世帯のゲスト権限として一時的にエイリアス接続する』。根拠法には、さっき掲示板で見た古い協定の条文番号を打ち込んだ。

『おい、そんなんで通るのかよ』
祖父さんのエージェントが訝しげに言う。
「通るかじゃない。通すんだ」
これは、党ドクトリンが想定していない、システムの隙間を突く賭けだった。送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。

心臓の音がうるさい。数分か、あるいはもっと短かったか。端末が静かにチャイムを鳴らした。

『第0x91C2内閣ユニット:承認』

短い、緑色の文字列。それだけだった。あの堅牢なアルゴリズムが、記録の穴と古いローカルルールが生んだこの歪な申請を、なぜか受け入れた。

俺はすぐに佐藤さんに連絡回線を繋いだ。
「佐藤さん、聞こえますか。隣の鈴木さんから、今日のスープのデータを分けてもらえることになりました。プリンター、再起動してみてください」
回線の向こうで、何かが小さく起動する音が聞こえた。
やがて、プリンターが温かい合成スープをカップに満たしていく、優しい動作音が続く。

巨大なシステムは、今日もどこかで誰かを切り捨てているだろう。でも、絡まったコントローラーのケーブルみたいに、隣同士で直接手を繋ぐ方法が、まだ残っているのかもしれない。
網膜のウィンドウの向こうで、頑固な職人だった祖父さんが、少しだけ口の端を緩めた気がした。