再同期、微かなノイズの向こう側
──平成0x29A年04月04日 12:40
窓の外、どんよりとした曇り空を横切るドローンの羽音が、研究室の強化ガラス越しに微かに響いた。十二時四十分。昼休みの終わりを告げるアラートが鳴る前に、俺はプラスチックの蓋を剥がした。
「お兄ちゃん、またそれ? 栄養バランス、党ドクトリンの推奨値から三〇パーセントも乖離してるよ」
耳の奥で、結衣の少し尖った声がした。網膜に投影された彼女のアバターは、享年二十一の時のまま、生意気に腰に手を当てている。法定倫理検査を先月パスしたばかりの彼女の思考アルゴリズムは、生前の妹よりも少しだけお節介が過ぎる気がした。
「いいんだよ。この『平成復刻版・激辛担々麺』じゃないと、今の限定シールが出ないんだ」
俺は容器の底に貼り付いていた、キラキラと光るホログラムシールを剥がした。描かれているのは、平成中期の人気アニメのキャラクターらしいが、今の俺たちにはただの『収集対象』でしかない。ドローンが運んできた熱々のカップ麺を啜りながら、デスクの隅にある古いラジオのスイッチを入れた。あえてデジタルノイズを混入させた「深夜ラジオ・エミュレーション放送」が、昼間の研究室に場違いな場末感を連れてくる。
「……続いてのハガキは、ラジオネーム『暗号解読中』さんから……」
スピーカーから流れる、わざとらしいほど湿っぽいパーソナリティの声。それが、俺の神経を適度に弛緩させてくれる。自動翻訳イヤホンを左耳に捩じ込み、海外の第0x82A内閣ユニットから届いた政策差分リクエストを流し聞きする。ロシア語かアラビア語か、あるいは古いC言語の混ざった何かが、不自然に平坦な日本語に変換されて脳に届く。
「兄貴、仕事。再同期エラーだよ。ID #772-皇-末端」
結衣の声が真剣みを帯びた。メインコンソールのホログラムが赤く点滅している。第19研究開発ブロックが管理する『遺伝子ネットワーク』の保守作業だ。国民の体内に薄く広く分散された、かつての皇室遺伝子の断片。それを統合し、象徴としての『ネットワーク』を維持するのが俺の仕事だが、稀にこうして特定の個体データが同期から漏れる。
画面には、名もなき老人のバイタルと、崩れかけた遺伝子譜が表示されていた。アルゴリズムは冷徹に「修復コスト過多。当該ノードのパージ(消去)を推奨」と署名入りのドクトリンを提示してくる。
その時、視界が急に暗転し、金色の通知が網膜を覆い尽くした。
【警告:貴方は現在、第0x31B内閣ユニットの第402511代内閣総理大臣に選出されました。任期は300秒です。】
「げっ、このタイミングで?」
結衣が素早く動いた。彼女はエージェントとして、俺の目の前に「閣議決定」のリクエストを並べる。その中の一つに、先ほどのエラーデータが含まれていた。「効率化のための浮遊遺伝子データの廃棄承認」。
承認ボタンを押せば、あの老人の『皇室との繋がり』は断たれ、ネットワークの負荷は〇・〇〇二パーセント軽減される。党のドクトリンに従えば、それが正解だ。アルゴリズムが生成した暗号署名が、承認を待って明滅している。
「……お兄ちゃん、このデータのノイズ、さっきのラジオと同じだよ」
結衣がふと呟いた。彼女が指し示した波形を見ると、廃棄予定の遺伝子データの中に、不思議な周期の揺らぎがあった。それは、スピーカーから流れる深夜ラジオの、あの心地よいノイズの周波数と奇妙に一致していた。
俺はイヤホンを外し、ラジオの音に耳を澄ませた。ハガキを読んでいるパーソナリティの声。どうでもいい日常の愚痴。誰も聞いていないような、遠い過去の残響。このデータの主も、きっとこのノイズを愛していた一人なのだ。効率化の波に消されるには、あまりにも惜しい、平成的な『無駄』の欠片。
残り時間は六十秒。俺は「非承認」を選択した。さらに、研究員としての権限を使い、再同期のアルゴリズムに「ラジオノイズによる位相同期」というデタラメな補正パラメータを無理やり割り込ませた。党の監視アルゴリズムが解読を終える前に、強引に署名を確定させる。
【閣議決定:当該データの再同期を再試行する。署名完了】
任期終了の合図とともに、視界が元に戻った。コンソールを見ると、赤かった警告灯が穏やかな緑色に変わっている。同期成功。老人のデータは、再び薄いネットワークの海へと溶け込んでいった。
「独裁者ごっこ、お疲れ様。また怒られても知らないからね」
結衣は呆れたように笑いながら、アバターの姿を消した。俺は冷めかけた担々麺のスープを飲み干し、手元のホログラムシールを眺めた。たった五分間の最高権力。それで救えたのは、誰の目にも止まらない微かなノイズだけだ。
それでも、ラジオから流れる次の曲のイントロが、さっきよりも少しだけクリアに聞こえた気がした。