六月の同期、褪せないチラシ

──平成0x29A年06月04日 16:50

 地下通路の湿度は、平成初期の梅雨を忠実に再現していた。コンクリートの壁に張り付いた「メタバース広場:ハチ公前集合!」というホログラム掲示が、電圧の不安定さゆえか、それともドクトリンの気まぐれか、時折激しく明滅している。

「航、足元の光ファイバーが浮いてるぞ。躓いて転ぶなよ」

 耳の奥で、父さんの声がした。真壁誠。僕が十歳のときに山で死んだ父さんは、今や僕の視界の隅で演算を助ける人格エージェントだ。だが、今日の父さんの声には、どことなくラジオのノイズのようなザラつきが混じっている。

「わかってるよ。それより父さん、さっきから記憶補助の同期が遅れてないか? 君の顔のテクスチャ、右半分がさっきから『たまご100円』のチラシ模様になってるぞ」

「……ああ、気づいたか。第402ヘゲモニー期の更新パッチが、俺みたいな『低頻度アクセス人格』の解像度を削りやがったんだ。効率化の一環らしい」

 僕は舌打ちをして、点検用コンソールを開いた。僕の仕事は、この第14セクターにおける物理サーバーと仮想空間の同期を保守することだ。事務所のデスクには、平成エミュレートの一環として配られた「紙のカレンダー」が置かれている。六月四日の欄には、僕が書いた「父さんの命日(旧暦)」というメモが、掠れたボールペンの跡で残っていた。その横には、今朝のデータ配信で届いた「スーパー・ジャスコ」の折込チラシ。赤いインクが目に痛いほどの、懐かしい安っぽさだ。

「党ドクトリンのアルゴリズムは、もう限界なんだ。何が『社会安定に最適』だ。父さんの声が割れることのどこに安定があるんだよ」

 僕がぼやくと、突如、視界が真っ赤に染まった。アラートではない。網膜に、金色の菊の紋章を模した、だが幾何学的に歪んだ暗号署名が浮かび上がる。

【通知:貴殿は現在から300秒間、第0x9F42内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました】

 心臓が跳ねる。数十万人が並行して務める、五分間だけの使い捨て総理。だが、この五分間だけは、僕のエージェント補佐を通じて「党」のドクトリンに差分リクエストを送ることができる。

「航、チャンスだ。今、システムに『記憶補助アルゴリズムの例外処理』を投げろ」

 父さんの声が一段と小さくなる。視界の中の父さんは、もはやノイズの塊になりかけていた。僕は震える指で、保守用端末から未承認のポリシー変更リクエストを選択した。それは、過去の個体記憶を「重要文化資産」として保護し、圧縮対象から除外する、名もなき誰かが提出したまま放置されていた差分断片(パッチ)だった。

『承認しますか?』

 エージェントの倫理検査が、僕の脳に「それは全体最適に反する」と警告を飛ばしてくる。だが、今の僕には、父さんが笑ったときの目尻の皺を守る義務がある。僕はメタバース広場の群衆が消えかかっているのを横目に、暗号化された署名を実行した。

 残り時間は、あと十秒。

「航、無茶しやがって……」

 父さんの声が、急にクリアになった。ノイズが消え、父さんの顔からチラシの模様が剥がれ落ちる。16時55分。権限が終了し、世界はまた一介の保守員のものに戻った。

 ふと見ると、机の上の折込チラシの隅に、父さんの筆跡で小さな落書きが復元されていた。「帰りに牛乳買ってきて」という、三十年前のあの日の記憶だ。ドクトリンの荒波が、ほんの一瞬だけ、僕の個人的な宝物を砂浜に残してくれたようだった。

「……父さん、牛乳、今は合成品しかないけどいいかな」

「ああ。冷えてりゃ何でもいいよ」

 ホログラムの掲示板には、いつの間にか「本日も平成、異常なし」という文字が、穏やかに浮かんでいた。