ガラス越しの党
──平成0x29A年 日時不明
朝の光が、図書館の返却窓を通して黄色くなる。
僕は北田亮、41歳。図書館の司書補で、毎朝返却期限を越えた本たちを仕分ける仕事をしている。今日も、誰かが置き忘れた手帳と一緒に、三週間遅れの『平成地方政治史』が戻ってきた。
「亮、その本さ」
ポケットのPHSから、母さんの声がした。僕のエージェントは亡き母・北田幸子だ。元・図書館司書。享年68。PHS経由で毎日、仕事の相談を受ける。
「『平成地方政治史』には、ドクトリン前の地域分権の話が出てるはずだよ」
「ああ、知ってる。でも返却期限は四日前だから、罰金は計算済みだ」
返却手数料を入力していると、窓の向こうから声がした。
「あ、すみません。その本、僕のです」
眼鏡をかけた男が、息切れしながら窓口に現れた。35歳くらい。スーツ姿。ガラケーと最新型のAR眼鏡を同時に装着していた——典型的な平成エミュ混線だ。
「申し訳ない。仕事で忙しくて。返却期限を三週間も過ぎてしまって」
「大丈夫です。こういうことはあります」
と僕は言ったが、母さんの声がすぐに来た。
「亮、その人、内閣ユニットの関係者じゃないのか」
スーツの男の胸元に、小さなバッジが光っていた。第0x782A内閣ユニット、政策レビュー課。つまり、あの『差分断片』を処理する側の人間だ。
「あ、この本、実は重要な参考資料でして。地方自治の再編についての提案を、今日の午後の閣議に提出するんです。古い制度の記録として」
男は焦った表情で説明した。
「五分間の任期中に決定を下す必要があるので。今朝、思い出して。焦りました」
五分間。つまり彼は、数時間後に第0x782A内閣ユニットの総理大臣になるということだ。ランダムに選ばれた市民の中から、その瞬間だけ。
「母さん、これ聞いてる?」
PHSは返答がない。いや、待て。今日は母さんの倫理検査の日だ。朝、僕は代理エージェント五号をインストールした。代理は、個人的な助言をしない。淡々と事実のみを返す。
「代理エージェント五号、質問。その男が本を借りた時期は」
「閣議開催予定日から七週間前です」
つまり、その男は七週間前から、地方自治の提案を準備していた。だが五分間の任期はランダムだ。いつ自分が総理になるかは、誰にもわからない。
「ありがとうございました」
男は本を受け取ると、すぐに去って行った。AR眼鏡の画面に何か映っていた。赤い警告メッセージ。おそらくドクトリンのアルゴリズムチェック。提案が『党』の基準に合致するか、自動検証されているのだ。
ガラスの向こうで、男の眼鏡の光が消えた。
「代理エージェント五号、質問。あの男の提案が承認される確率は」
「計算不可。ドクトリンは末期です。アルゴリズム署名は、すでに公然と解読されています」
PHSの画面には、代理の声だけが残った。
僕は『平成地方政治史』の返却期限を再入力した。その時、母さんの幽霊のような声が——いや、違う。これは倫理検査室から流れてくるPHS経由の、本当の母さんの音声だ。
「検査終了。復帰します」
「母さん?」
「その本、返して来た男。内閣ユニットのバッジを見た?」
「ああ」
「あの手のやつらは、ドクトリンが解読されてることを知ってる。それでも、毎日、提案を出す。五分間のために」
ガラス越しに、朝日がさらに黄色くなる。
「なぜだと思う、亮?」
僕は答えられなかった。代理エージェント五号さえ、それは計算不可だと言ったのに。