透明な骨格、濡れた鍵束
──平成0x29A年 日時不明
午前六時。防災訓練施設の備蓄倉庫に入ると、ロボ清掃員がCRTモニターの埃を払っていた。
「おはよう、遠藤さん」
耳の中で叔父の声がした。亡き叔父・遠藤隆(元消防団長、享年67)の人格エージェントだ。三年前から運用している。
「ああ、おはよう」
俺は遠藤修、四十五歳。第二十三防災訓練センターの設備管理責任者。今日は大規模な避難訓練がある。三千人規模。内閣ユニット第0x7A92Fが主導する災害対応シミュレーションの一環だ。
CRTモニターには、避難経路の図面が映っている。平成エミュレーションの影響で、こういう旧型端末が現役なのだ。ロボ清掃員は床のゴミを吸い込みながら、画面の静電気に引き寄せられた埃まで丁寧に取っている。
「修ちゃん、今日は雨だぞ。ビニール傘、多めに出しておけ」
「ああ、わかってる」
倉庫の奥から、透明なビニール傘を二百本ほど台車に積む。取っ手には量子署名タグがついていて、貸出記録が自動で分散台帳に刻まれる仕組みだ。署名アルゴリズムは党ドクトリン準拠。まあ、もう半分解読されてるけど。
台車を押して外に出ると、小雨が降っていた。集合場所の広場には、すでに参加者が集まり始めている。ガラケーを片手に受付をする職員。ARグラスで避難マップを確認する家族連れ。iモード風のUIと拡張現実が混在する光景。
「遠藤さん、ちょっといいですか」
訓練統括の若い職員が駆け寄ってきた。
「遺伝子ネットワークの同期に微細なズレが出てるんです。参加者の中に、皇室遺伝子ネットワークの末端ノードが三名いるんですが、そのうち一名の同期信号が0.003秒遅延していて」
「それ、訓練に影響あるのか?」
「わからないんです。ただ、内閣ユニットからの承認署名が通らなくて。ドクトリンが『遺伝子ネットワークの完全性確認』を要求してるみたいで」
叔父の声が耳元で囁いた。
「修ちゃん、昔な、訓練で一番大事なのは『始めること』だったんだ。完璧を待ってたら、いつまでも動けない」
俺は職員に言った。
「その遅延、どこの誰だ?」
「えっと……広場の東側、青い傘の女性です」
CRTモニターを確認すると、確かに彼女のIDだけ同期マーカーが点滅している。俺は広場に向かい、青い傘の女性に声をかけた。
「すみません、少しお時間いいですか」
女性は四十代くらい。穏やかな顔で振り返った。
「はい、何でしょう」
「遺伝子ネットワークの同期に微細なズレがあるんです。体調に問題はありませんか?」
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、今朝、娘の弁当作りで少し寝不足で」
叔父の声。
「寝不足か。それだけで同期がズレるもんかね」
「ズレますよ、叔父さん。遺伝子ネットワークは生体リズムに敏感なんです」
女性が不思議そうに俺を見た。エージェントとの会話が漏れたらしい。
「すみません、独り言です」
俺はガラケーを取り出し、内閣ユニットに「遅延理由:生体リズム変動、訓練続行可」と打ち込んだ。量子署名を添付して送信。三秒後、承認通知が返ってきた。
「大丈夫です。訓練、始められます」
女性は安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。娘にも『ちゃんと参加してね』って言われてたので」
俺は広場に戻り、ビニール傘を配り始めた。透明な傘の柄に、量子署名タグが小さく光っている。ロボ清掃員がCRTモニターの前で待機している。叔父の声が言った。
「修ちゃん、いい仕事したな」
「当たり前だろ。これが俺の仕事だ」
訓練開始のサイレンが鳴った。三千人が一斉に動き出す。雨の中、透明な傘が波のように揺れた。遺伝子ネットワークの同期信号は、もう完全に揃っている。
俺はCRTモニターを見つめながら、少しだけ安堵した。