駐輪場の札、霜の下の監査票

──平成0x29A年11月23日 02:20

 ラジオの声が途切れた。

 二秒ほどの沈黙のあと、パーソナリティが「さて、お便りいきましょうか」と言った。深夜二時を回ったFM平成の『夜更かしグリーンルーム』。リスナーからの葉書を読む体裁の番組だが、葉書は実在しない。全部アルゴリズムが生成したテキストだと、姉さんが生きてた頃に教えてくれた。それでも俺は毎晩聴いている。ビニールハウスの中で、MDコンポのチューナーをいじりながら。コンポの液晶は「DISC」と「TUNER」の切り替え表示がバグって両方点いているが、音は出る。

 ハウスの中は二十二度。外は霜が降りている。水耕レタスの棚が七段、LEDの紫に照らされて、静かに水が循環する音だけがする。俺の仕事はこの音を聴くことだ。正確には、第6農業ブロック第三水耕施設の夜間管理。だが今夜の仕事は、レタスじゃない。

 端末が震えた。ガラケーの外側ディスプレイに「監査票受領 確認せよ」の一行。開くと、分散ストレージから今月三度目の適正栽培監査票がダウンロードされていた。百十二項目。養液のEC値、pH、光量子束密度、棚ごとの生育偏差——先週と同じ項目が並んでいる。先々週とも同じだ。

「また来たの」

 イヤホンの左側から、姉さんの声がした。正確には姉さんの人格を移したエージェント。中西 弥生。享年二十九。三年前、収穫ロボットの誤動作で。

「先週も全項目クリアだったでしょ。なんで三度も」

「知らない。党のドクトリンが出してくるんだろ」

「ドクトリンっていうか、もうあのアルゴリズム、巡回パターン壊れてるんじゃないの。同じブロックに何度も監査入れてる」

 姉さんはいつもこういうことを言う。生きてたときもそうだった。ただ、生きてた姉さんは言った後に自分で直そうとした。エージェントの姉さんは言うだけだ。それが少しだけ寂しい。

 俺は端末を閉じて、ハウスを出た。

 外の空気が肺に刺さる。十一月の深夜、吐く息が白い。駐輪場に停めた自転車のハンドルに、紙札がくくりつけてある。「放置車両警告 撤去対象」。俺の自転車だ。毎日使っている。だが管理システムが二週間ごとにリセットされるらしく、定期的にこの札がつく。前は剥がして捨てていたが、最近はそのままにしている。どうせまた来る。

 公共ARサインが駐輪場の壁面にぼんやり浮いている。「第6農業ブロックは皆さまの食卓を支えています」。その下に小さく、遺伝子ネットワーク接続状態のインジケータが緑色に点滅していた。誰も見ない表示。俺も普段は見ない。

 ハウスに戻った。端末を開き直して、監査票を一項目ずつ埋めはじめた。養液タンクのバルブを開けて目視、センサー値と照合、チェックを入れる。繰り返し。姉さんが補佐データを読み上げてくれる。EC値2.1、基準内。pH5.9、基準内。光量子束密度——

「ねえ、これ提出しなかったらどうなるの」

「知らない。たぶん、四度目が来る」

「あはは。それはそうか」

 姉さんが笑った。生前と同じ、少し鼻にかかった笑い方。

 百十二項目を埋め終えたのは三時過ぎだった。署名をつけて送信。分散ストレージに吸い込まれていく。ラジオではリスナーの「お便り」が、平成の冬のおでんの話をしていた。

 紫色のLEDの下で、レタスは何も知らずに育っている。

 来週もたぶん、同じ監査票が届く。俺はまたここで、同じ項目を埋めるだろう。姉さんが読み上げて、俺がチェックを入れる。それだけのことだ。

 ガラケーを畳んで、ポケットに入れた。MDコンポのボリュームを少し上げた。パーソナリティが「次のお便り」と言っている。

 霜の降りた駐輪場に、紙札が風に揺れる音がかすかに聞こえた。