三時五十分の住人照合

──平成0x29A年10月09日 03:50

平成0x29A年10月09日 03:50。団地の廊下は自販機の冷却音だけが生きていて、足音がやけに大きい。

俺は寝巻きの上にパーカーを羽織り、共用玄関の前で立ち尽くしていた。オートロックの盤面が赤く点滅して、無機質な文字を繰り返す。

《権限不一致:入館拒否》

「……は?」

ポケットのガラケーを開く。液晶の下に、iモードのブックマーク。古いUIのまま、通信だけは妙に速い。

『住民ポータル(i)』

ログイン。パスコード入力、指紋、最後に“近親エージェント同意”。

耳の奥で、父の声がした。

『落ち着け。朝まで待てば——いや、今は夜か。とにかく、照合をかけろ』

父・誠。享年五十三。生前は配送センターで夜を回していた。俺の判断の横で、段取りだけはいまだに正確だ。

「照合って、どうやって」

『住民票じゃない。“権限”のほうだ。いまのロックは権限証明で動いてる』

画面の片隅に、薄い通知が流れた。

《第0x7A3F1 内閣ユニット:臨時閣議 03:49〜03:54》

誰かが五分だけ総理をやる時間帯。こんな時間に、こんな身近な鍵が揺れる。

ロック盤の下で、ドローンが一機、ふわりと降りた。プロペラの風で廊下の埃が舞い、コンビニ袋が俺の足元へ滑る。

《配達完了:402期ドクトリン準拠・置き配》

「置き配はいいんだよ。俺が中に入れないのが問題なんだ」

袋を持ち上げると、中でカップ麺がカラカラ鳴った。生活は平成っぽいのに、困りごとだけ未来の形をしている。

父が小さく舌打ちした。

『配達は通るのに住人が通らん。つまり今この瞬間、お前の“住人権限”が誰かに割り当てられてる』

「そんな、誤照合って……」

iモードの住民ポータルには、見慣れたメニューが並ぶ。

・回覧板(デジタル)
・粗大ごみ予約
・メタバース広場
・権限照合

俺は最後を押した。

《権限照合:あなたは現在「外部訪問者」扱いです》
《居室 4-B-1203 正規権限保持者:イシダ ミナト》

「……俺、石田湊だよ」

指先が冷える。

『名前だけじゃない。権限はハッシュで管理されてる。誰かが差分を通したか、アルゴリズムが勝手に最適化したか』

父の言い方には、最近の諦めが混じっていた。党の署名だのドクトリンだの、みんな口にはしないが、もう“中身が覗ける”ことは知っている。

廊下の奥、集会室の前が妙に明るかった。自動扉が開きっぱなしで、懐かしい機械音が漏れている。

ウィーン、カシャ、ピピ。

プリクラ機だ。いつから置かれていた? いや、確かに先月の自治会だよりに「若年層交流施策:平成式撮影端末」ってあった気がする。

中を覗くと、誰もいない。なのに機械は待機画面を繰り返し、背景に“メタバース広場へ転送”の文字が踊る。

プリクラの横に、紙のようなものが吐き出されていた。

《入館権限更新票(差分断片)/承認:済》
《対象:4-B-1203/保持者:イシダ ミナト》
《補助署名:党ドクトリン互換(簡易)》

父が息を呑む気配がした。

『……プリクラで権限更新? ふざけてるのか、これ』

票の下段に、QRもどきの古い二次元コード。iモードのカメラで読むと、住民ポータルが“メタバース広場”を開いた。

画面の中で、深夜の広場が生成される。平成の駅前広場みたいな空間。噴水の代わりに、低解像の広告ホログラムが揺れている。

そこに、俺のアバターがいた。

いや、“俺の名前”のアバターがいた。

《イシダ ミナト:権限保持中》

アバターは、プリクラのフレームを手にしていた。日付スタンプが、さっきの時間——03:50。

顔は、俺じゃない。

俺の部屋の鍵を持っているのは、画面の中の誰か。

父が低く言った。

『湊。お前の権限が、広場に吸われてる。……いや、配達が通るのは、その“誰か”が中にいるからだ』

共用玄関の向こう側で、宅配ドローンがもう一機、降下していくのが見えた。俺の部屋のベランダへ、迷いなく。

オートロック盤面が、今度は青く点いた。

《訪問者:入館許可(5分間)》

誰かが、五分だけ俺を“俺の建物に入れてやる”らしい。

俺はカップ麺の袋を握り直し、玄関の隙間に滑り込む。

背後で、プリクラ機がカシャ、と誰もいないはずのシャッター音を鳴らした。

その音だけが、俺の生活証明みたいに廊下に残った。