折れ線グラフは走らない
──平成0x29A年01月29日 09:20
俺が運転席に座ると、自律型バスは勝手にエンジンをかけた。
「おはよう、陸斗」
母さんの声が、ダッシュボードの小さなスピーカーから響く。遠藤陸斗、二十六歳。第三循環線の監視運転手。自律バスは基本的に人間がいなくても走るが、法令で「有人監視」が義務づけられている。俺の仕事は、座っていること。
「おはよう、母さん」
母さんは五年前、享年四十九で心臓発作で死んだ。いまは俺の近親人格エージェントとして、毎朝バスの隅から話しかけてくる。
フロントガラスの向こうで、ドローンが低空を横切った。配達用だ。荷物を抱えたまま、駐輪場の上を滑っていく。駐輪場の自転車には、色あせた紙札がぶら下がっている。「3番」「12番」。平成の頃の名残らしい。いまはICタグで管理されてるはずなのに、紙札だけが残ってる。
「今日も平穏そうね」
母さんの声が、いつもより少し遠い。
「そうだな」
俺は、ハンドルに手を置いた。握る必要はないけれど、そうしないと落ち着かない。バスは自動で発進し、決められたルートを走り始める。窓の外には、平成エミュの街並みが流れていく。コンビニの看板。ガラケーの広告。MDプレイヤーを売ってる小さな店。どれも本物なのか、偽物なのか、もう誰にもわからない。
九時二十分。
突然、母さんの声が途切れた。
代わりに、機械音声が割り込んできた。
『第0x4A29F内閣ユニット、内閣総理大臣に任命されました。閣議決定権限が付与されます。残り時間:五分』
俺は目を見開いた。
「は?」
ダッシュボードのディスプレイに、政策変更リクエストが次々と表示される。
『リクエスト#8821:第三循環線の運行ルート短縮案。人員配置コスト削減のため、監視運転手配置を廃止し、完全自律運行に移行する』
俺の仕事を削る提案だ。
『承認しますか? はい / いいえ』
バスは、信号で止まった。窓の外を、ドローンがまた一台通り過ぎる。
「母さん?」
返事はない。エージェントは、閣議中は発言できない仕様らしい。
俺は、ディスプレイを見つめた。
「……いいえ、で」
タップした。
すぐに次のリクエストが流れてくる。
『リクエスト#8822:ドローン配達の優先空域拡大案。地上五メートル以下を全面開放し、自律バス運行との調整義務を撤廃する』
これも、俺たちの仕事を圧迫する内容だ。
「いいえ」
次。
『リクエスト#8823:旧暦準拠カレンダー印刷事業の予算増額案。平成エミュ文化保全のため、紙のカレンダー配布を継続する』
これは、どうでもいい。でも、なんとなく「はい」を押した。
次々とリクエストが来る。俺は片っ端から「いいえ」「はい」を押していく。内容なんて、もうよくわからない。バスは次の停留所に着いた。乗客が二人乗り込んでくる。俺は、何食わぬ顔で座ったまま、ディスプレイを操作し続けた。
『残り時間:一分』
最後のリクエストが表示された。
『リクエスト#8829:駐輪場紙札管理システムの撤廃案。ICタグ一本化により、紙札印刷コストをゼロにする』
また、紙の話だ。
俺は、ふと窓の外を見た。さっきの駐輪場が、まだ視界の端に見える。色あせた紙札が、風に揺れている。
「……はい」
押した。
『閣議決定を完了しました。お疲れ様でした』
母さんの声が戻ってきた。
「陸斗、どうしたの? 顔色悪いわよ」
「……なんでもない」
バスは、また走り出した。
昼休み、俺はコンビニに寄った。壁には、紙のカレンダーが貼ってあった。一月二十九日。赤い丸がついている。
レジの横に、小さな告知が貼られていた。
『駐輪場紙札、本日をもって撤去。ICタグをご利用ください』
俺は、カレンダーを見上げた。
来月も、再来月も、紙の日付が印刷されている。
俺の仕事は残って、紙札が消えた。
なんだか、逆のような気がした。