回覧板の角で指を切る

──平成0x29A年 日時不明

高層農業プラントの十七階は、朝いちばんに水と鉄の匂いがする。透明な培養槽が壁みたいに並び、レタスの根が白い糸をほどく。私は作業着の袖で額をぬぐい、腰の端末より先に、紙の束を机に置いた。

「回覧板、きたよ」

端末のスピーカーから、祖母の声がした。亡くなって八年のハルばあちゃんが、私の近親人格エージェントだ。言い方だけは昔のまま、内容は妙に数字に強い。

回覧板の表紙には、町内の判子欄がきっちり印刷されている。なのに二枚目から、薄い透明フィルムが挟まっていた。見出しは手書き風で。

『カーボンクレジット台帳(紙写し)—今月分、各戸確認のこと』

紙の回覧板に、台帳が貼り付いて回ってくる時代に、私は生きている。笑うところなのに、笑うと喉が乾く。

フィルムを指でなぞると、微細な凹凸で署名が浮き上がる。朱肉の匂いがしないのに、確かに「承認」の押印欄だけが艶っぽい。

「これ、党の署名?」

「ふつうはね」ばあちゃんが言う。「でも今どき、誰でも真似できるって噂。露出ってやつ」

露出。アルゴリズムが、外に出てしまった。

今日の仕事はレタスの収穫ではなく、フロアの“安定値”報告だった。プラントの生産量は、カーボンクレジットの配分と直結する。だから、回覧板で台帳を各戸に見せる。誰かが不正に数字を書き換えれば、夕飯のサラダが減る。

机の隅では、スーファミが動いている。監視用じゃない。休憩室から借りてきた。コントローラのLボタンが少し沈む。

高層農業プラントの点検ルートは複雑で、作業員の気が散ると事故が起きる。だから昔からの“集中訓練”として、作業前に一面だけゲームをする決まりが残った。平成の癖だ。

私は『シムシティ』のカセットを差し込み、ブラウン管風の小型パネルに街を表示した。なのに、画面の右端にAR広告が重なる。

《月額サブスク:栄養液プレミアム—今なら初月0クレ》

「平成をやれって言うなら、広告の出し方も平成にしてほしい」

「平成にも広告はあったよ」ばあちゃんは冷静だ。「でも、ここまで露骨じゃなかった」

ゲームの中で税率をいじると、現実の端末が小さく震えた。通知が一件。

《あなたは第0x7A19C内閣ユニット:臨時レビュー担当に選出されました(5分)》

よりによって、作業前の一面が終わる前に。

「ほらきた」ばあちゃんが笑う気配を混ぜる。「税率いじった手で、税みたいな決裁」

私は手袋を外し、端末の認証面に指を置いた。議題は三つ。うち一つが、まさにこれだった。

《政策差分断片:カーボンクレジット台帳の“紙写し回覧”を、署名簡略化で継続》

署名欄には、党ドクトリンの暗号署名がついているはずなのに、今日の回覧板と同じ、凹凸のパターンが見える。

「同じ型だね」ばあちゃんが囁く。「誰かがテンプレ化した。簡略化って名目で」

五分の砂時計が、画面の隅で減っていく。私は承認か非承認かを押すだけの役だ。本来なら、エージェントが“倫理”を先に読む。

「ばあちゃん、これ通すとどうなる」

「みんな安心する」

「それだけ?」

「安心っていうのはね」ばあちゃんは少し間を置いた。「疑わない練習でもある」

私の指先に、回覧板の角で切った小さな傷が痛んだ。さっき、フィルムをめくるときにやった。

砂が尽きる。

私は、非承認を押した。

すぐに端末が静かになり、作業フロアの送風音だけが戻った。レタスは何も知らずに光を浴びている。

回覧板の判子欄に、私の番がある。朱肉をつけ、押す。紙だけは正直だ。滲む。

そのとき、回覧板のフィルム台帳が、ふっと色を変えた。透明だったはずの欄に、赤い文字が浮かぶ。

『非承認により、紙写し継続:暫定で自動承認に切替』

「ね」ばあちゃんが言った。「安心は強いの」

私は笑った。苦くて、口の中が栄養液みたいに金属っぽい。

スーファミの画面では、私の街が勝手に“安定化”していく。税率も、勝手に元に戻っていく。

現実の回覧板も同じだ。押したはずの判子の意味だけ、いつの間にか、薄くなる。