四時の共用廊下、巻き戻しの音
──平成0x29A年04月11日 04:00
平成0x29A年04月11日、午前四時。団地の共用廊下は、消毒液と古い畳の匂いが混ざっている。
俺はゴミ置き場の前で立ち尽くし、指先でビニール紐をいじった。中身はVHSテープ二本。ラベルに油性ペンで「運動会’03」「結婚式」と書いてある。昨日、四階の佐倉さんが「捨て方わかんないから」と押し付けてきたやつだ。
「燃える? 燃えない? どっちでもない顔してるわね」
耳元のイヤーカフから、姉の声がした。真奈。享年二十七。俺が高三の冬、凍結事故で逝った。今は俺の近親人格エージェントとして、こういうどうでもいい局面だけ妙に元気だ。
「公式は“記録媒体は資源循環へ”だろ」
「公式、ね。ここは“佐倉さんの袋は管理人室前にそっと置く”が公式よ」
この団地には、掲示板に書かれないルールがいくつもある。ゴミ出しカレンダーより強い、住民の空気の方の法律。
廊下の端で、自律警備ドローンが低い羽音を立てた。目みたいなセンサーがこちらを一度だけ見て、壁際の消火器と同じ程度の関心で通り過ぎる。夜間巡回は「異常を見なかったことにする」設定が多い。たぶん、住民が望む“安定”ってやつに最適化されてる。
俺は端末を開き、iモード風の縦長メニューを親指で押した。背景は謎の水色グラデーション、リンクは下線付きの青。『居住ブロック>資源循環>媒体廃棄申請(簡易)』。このUIだけ、何故か昔のまま残っている。
申請を押すと、こう出た。
『回収日は次回:04/18(要:バイオメトリック改札通過ログ)』
「改札ログ?」
「駅、行ってないの?」
「今週、在宅警備の短期で、外出ゼロだ」
団地の資源回収は、なぜか“駅の改札を通った証拠”がいる。外で生活してる人を前提にした制度の残骸だ。役所はもう近所にないのに、手続きだけは生き残っている。
「ねえ、裏技あるでしょ」
真奈が言った。
「管理人さんの口座に“協力金”を入れるやつ」
俺は視線を掲示板に向けた。『不法投棄は厳禁』の下に、手書きの小さな紙が貼ってある。
『媒体類は朝4:30までに管理人室前へ。袋は白。紐は赤。』
公式より具体的。しかも時間まで指定。まるで、誰かが毎回その時間に見回っているみたいに。
「赤い紐、今ない」
「あるじゃん。あなた、平成の引き出し持ってる」
俺は部屋に戻り、引き出しを漁った。MDの空ケース、使いかけのテレカ、謎に残ってる赤い荷造り紐。ついでに、VHSを一本だけ再生したくなって、押入れの奥からデッキを引っ張り出しかけてやめた。巻き戻し音を聞いたら、たぶん今日は眠れない。
廊下に戻ると、ドローンがまた来た。今度は俺の手元を少し長く見た。
端末に通知が滑り込む。
『第0x9C21A 内閣ユニット:臨時レビュー参加(5分)』
「うわ、来た」
「あなたが総理大臣、五分だけ。今日の運勢、最悪」
画面には差分断片が一件だけ出ていた。
『提案:居住者の資源回収条件を“バイオメトリック改札ログ”から“団地入退館ログ”へ変更』
『根拠:在宅人口増加』
『署名要求:党ドクトリン準拠』
俺は親指を止めた。これ、通ったら楽になる。佐倉さんのVHSも、俺の将来の何かも、捨てやすくなる。
「押しなよ」真奈が言う。「“正しい”んでしょ」
承認ボタンの下に、灰色の注意があった。
『党署名アルゴリズム:不一致(推定:解読済みテンプレ差異)』
「またこれか」
最近、党の署名はうまく噛み合わない。皆が中身を薄く知ってしまって、逆に“正しさ”が揺れている。
俺は承認を諦め、非承認に指を置いた。その瞬間、ドローンが短く鳴いた。ピ、と乾いた音。
『共用廊下:未登録物品検知』
「見てるじゃん」
「見ちゃったね」真奈は妙に楽しそうだ。
俺はVHSの袋を抱え直し、管理人室前まで歩いた。手書きルールの通り、白い袋に赤い紐で結び、そっと置く。
ドローンは追い越していき、管理人室のドア前で停止した。レンズが袋を覗き込み、次に俺の顔へ。端末が震えた。
『バイオメトリック改札:暫定通過ログ付与(近隣駅・無人)』
「……は?」
俺の指紋も虹彩も、駅なんか通ってないのに。団地の廊下で、駅を通ったことになった。
真奈がくすっと笑う。
「ほらね。ここ、駅より改札っぽいじゃん。通るの、管理人室の前だし」
五分の総理画面は勝手に閉じた。差分は保留のまま。
俺は苦く笑ってしまった。制度を変える提案は通らないのに、ログだけは都合よく増える。
廊下の奥で、誰かが新聞受けを開ける音がした。平成の朝の音。
VHSの袋は静かにそこに残り、俺の端末には“駅を通った”証拠だけが残った。