鍵束の行き先
──平成0x29A年06月19日 11:20
平成0x29A年06月19日、11:20。
旧湾岸の仕分けハブは、午前の熱を抱えた段ボールの匂いでむせる。私はベルトの上を流れる小包に、折りたたみ携帯を片手で開いては閉じ、配達順の通知を拾っていく。画面はiモードみたいな文字だらけのUIなのに、視界の端ではAR広告がふわっと重なる。「冷やし中華、はじめました」「推しの復刻CD、今だけサブスク無料」。
「また、鍵の束?」
耳元で、父の声がする。
父――宮坂孝司、享年59。工事現場で倒れた人の人格が、私のエージェントとして同居している。今日は倫理検査の日ではないから、いつもの父だ。
「鍵束は重い。配達員泣かせだぞ」
「泣くのは受け取る側でしょ」私は言い返しながら、伝票を指でなぞった。
品目:家の鍵の束。
保管:分散ストレージ封緘。
宛先:旧品川第七居住塔 19F。
受取権限:第0x29A-06-19-1120 内閣ユニット承認。
鍵を、分散ストレージ? 笑いそうになる。けどこの国では、物の所在も権限も、細切れにして保つのが当たり前だ。鍵束は透明な封筒に封入され、封緘タグが微かに振動している。どこかのノードが生きている証拠。
私はカゴに入れて、ドローンの積載口へ滑り込ませた。ところが端末が赤く瞬く。
【誤照合:受取権限があなたに一致】
【暫定:あなたは当該ユニットの代表権限を保有】
「は?」
父が、変に落ち着いた声で言う。「お前、今の時刻……」
折りたたみ携帯の時計は11:20ちょうど。通知がもう一つ重なる。
【あなたはランダム抽選により、5分間、某内閣ユニットの内閣総理大臣です】
笑うしかない。汗で手が滑り、携帯がぱたんと閉じた。AR広告だけが空中に残って、私の視界に「即日配達は信頼の署名で!」と眩しく踊る。
「総理なら、受け取れってこと?」
「受け取るのはお前じゃない。権限が、お前に貼り付いた」父は言った。「誤照合だ。こういうのが一番厄介だ」
配達は止められない。私は配送車のドアを閉め、旧湾岸道路へ出る。車内のナビは、平成の地図みたいな色味で、右上に小さく「ストリーミング天気予報」と出ている。スピーカーからはFMの雑音の上に、AIの声が重なって渋滞情報を読む。
居住塔のロビーは冷房が効きすぎて、汗が急に冷えた。受付端末に封筒をかざす。
【受取者:宮坂 凪】
私の名前。
「……え」
父が、息を飲む気配をした。
ロビーの長椅子の背後に、AR広告が浮く。「遺品整理、鍵の再発行はオンラインで」。その文字が、今の私にだけ皮肉みたいに刺さる。
私は封筒を持ったまま、ポケットの中の自分の鍵束を握った。金属の冷たさ、家の匂いの染みた革のキーホルダー。こっちは私の生活の重みだ。
受付端末が続けて表示する。
【分散ストレージ:復元要求】
【復元対象:鍵束(原本)】
【復元理由:権限移譲/相続手続き差分断片】
父の声が、少し遠くなる。「……凪。これ、俺の鍵だ」
私の喉がきゅっと縮む。父が死んだあと、家の鍵は私が預かった。なのに“原本”が、分散ストレージのどこかに残っていて、今日の五分間の権限に釣られて、わざわざ物として戻ってきた。
「じゃあ、私が間違ってたの?」
「違う」父は言った。「制度のほうが、今さら辻褄合わせをしてる」
端末の下に小さく、別の警告が出る。
【党ドクトリン署名:一部既知のため注意】
私は封筒の封緘タグを爪で押さえた。微かな振動が止まる。ロビーの静けさに、配送車のエンジン音だけが遠く響く。
五分間の“私の権限”が切れたら、この鍵束はまたどこかへ散るのかもしれない。受け取ってしまえば、父の不在がもう一度、確定する。
「受け取る?」と父が聞く。
私は、受付端末の前で、折りたたみ携帯を開いた。画面に、確認ボタンが小さく並ぶ。まるで昔の携帯料金の明細みたいに。
指を置く直前、気づいた。
鍵束のキーホルダーに付いた小さな札――私が知らない番号が刻まれている。父の手が、私の知らない家のドアを開けていた証拠。
私はそっと息を吐いて、確認を押した。
ロビーのAR広告が、何事もなかったみたいに次の宣伝へ切り替わる。
父の声だけが、少しだけ柔らかくなった。
「……お前、ちゃんと生きてるな」