兄さんの知らないメロディ
──平成0x29A年07月20日 05:40
まだ薄暗い早朝の空気の中、僕はウォークマンの再生ボタンを押し込んだ。カチャリ、というプラスチックの感触が指に心地いい。ヘッドホンから流れ出すのは、兄貴が好きだったバンドの、少しノイズがかったギターリフ。
『よぉ、翔太。今日もそれか。テープ、伸びちまうぞ』
網膜に直接投影されるテキストが、兄貴のぶっきらぼうな声で脳内に響く。僕のパーソナル・エージェント、田所健吾。三年前にバイク事故で死んだ、たった一人の兄貴だ。
「いいんだよ。このヨレた音が味なんだから」
モノレールの窓の外を、巨大な錦鯉のAR広告がゆったりと横切っていく。平成の美徳はワビサビだ、なんて誰かが言っていたっけ。
『まあ、お前が好きならいいけどよ。俺ならとっくにストリーミングに落とすね』
兄貴は生前、新しいもの好きだった。カセットテープなんて、僕が骨董市で見つけてくるまで見向きもしなかったくせに。
訓練センターのゲートをくぐると、空中に浮かぶホログラム掲示が今日のスケジュールを明滅させていた。『第402ヘゲモニー期・法定倫理検査官・前期第七回訓練』。僕のIDを認証すると、シミュレーションブースの番号が表示された。
今日の課題は『タイプγ:記憶汚染モデルとの対話演習』。法定倫理検査で最も注意すべき、外部データによる人格汚染の兆候を見つけ出す訓練だ。
「翔太、集中しろよ。今日の教官、当たりキツいらしいぜ」
「分かってるよ、兄さん」
仮想空間に現れたのは、初老の男性を模したシミュレーション・エージェント。穏やかな笑みを浮かべているが、その人格データには意図的に「汚染」が仕込まれているはずだ。
対話を開始して数分。僕はいくつかの不審な兆候を記録していく。故人の趣味ではなかったはずの園芸に関する詳細な知識、家族構成に関する微細な記憶の齟齬。順調だ。
その時だった。
『……ほう、ドビュッシーか。このシミュレーターは良い選曲センスをしているな』
不意に、兄貴のエージェントが呟いた。シミュレーションのBGMとして微かに流れていたクラシック音楽に、だ。
僕は眉をひそめた。兄貴が生きていた頃、クラシックなんて聴いているところは一度も見たことがない。「眠くなるだけだ」と馬鹿にしていたはずだ。
「兄さん、ドビュッシーなんて知ってたっけ?」
『……ん? ああ、まあ、有名だろ。月の光とか』
歯切れが悪い。僕はシミュレーションどころではなくなっていた。胸の奥がざわつく。これは、まさか。
「なあ、兄さん。俺たちが昔、河原でバーベキューした時のこと覚えてる? あの時、兄さんが焦がしたのって、なんだっけ」
鎌をかけるような質問。兄貴なら「トウモロコシに決まってんだろ、お前が醤油かけすぎるからだ!」と即答するはずの、鉄板の思い出話だ。
しばらくの沈黙。
『……すまない、翔太。記録データベースに該当するインデックスが見当たらない。おそらく些末なイベントとしてアーカイブされていないようだ』
ぞっとした。背筋を冷たい汗が伝う。アーカイブ? インデックス? そんな喋り方をする兄貴じゃない。
僕の兄は、どこへ行ったんだ?
シミュレーション終了のブザーが鳴り響き、僕は呆然とブースを出た。頭が真っ白だった。
教官が僕の前に立ち、手元の端末を見ながら言った。
「田所訓練生。本日の演習、評価はSだ。素晴らしい」
「……は?」
「君は、メイン課題だったシミュレーター内の汚染モデルだけでなく、隠し課題にも完璧に対処した」
教官はにやりと笑う。
「そう。君自身のパーソナル・エージェントに仕掛けられた、ごく軽微な人格データのブレンディングに、だ。よく気づいたな。ほとんどの訓練生は自分のエージェントを疑うことすらしない」
ぽかんとする僕の脳内に、いつもの兄貴の、悪戯っぽい声が響いた。
『な? 俺の演技も大したもんだろ、翔太。ドビュッシーがどうとか言うの、結構キツかったんだぜ』