校正された夜、ポケットの銀塩

──平成0x29A年11月10日 03:10

「時刻は03:10。徹、第三セクターの毛布の配置が党ドクトリンの規定から二センチずれている。修正して監査ログを再提出しろ」

耳元の骨伝導イヤホンから、叔父・隆の声が響く。過労で倒れた生前の几帳面な性格そのままに、私の人格エージェントとして今も細かすぎる指摘を続けている。
「わかってるよ。今やってる」

平成0x29A年11月10日。深夜の旧品川エリア、区立第三中学校の体育館。底冷えする空気の中、私は災害インフラ監査局の現場監査員として、避難所設営訓練の立ち会いをしていた。

パイプ椅子を並べるボランティアたちを横目に、私はARグラスで備品の座標データをスキャンする。ただの訓練だというのに、毛布一枚、ペットボトル一本の配置までブロックチェーンに刻み、どこかの内閣ユニットの承認を得なければならない。アルゴリズムなんてもう半ば公然と解読されているのに、形骸化した過剰な監査手続きだけが私たちの日常をひたすらに摩耗させていた。

『――続いての曲は、懐かしの冬のナンバーです』
体育館の隅でパイプ椅子に座る初老の職員が、携帯端末から深夜ラジオを流している。ノイズ混じりのAM周波数と、ストリーミングのクリアな音質がシームレスに混線する平成エミュレートの産物だ。

手元の監査端末が「バッテリー残量5%」の警告を出した。私は舌打ちし、体育館の壁際に設置された共有型バッテリーのスタンドへ向かった。iモード風のチープなUIが表示された液晶パネルに非接触ICチップをかざすと、ガチャンという物理的なロック解除音とともに分厚いバッテリーが顔を出した。それを引き抜き端末にケーブルを繋ぐと、プラスチックの筐体が一気に熱を帯びた。

「監査報告書のドラフトができた。確認してくれ」
「文体が規定に適合していない。やり直しだ」と叔父。
私はため息をつき、画面上の「生成AI校正」ボタンをタップした。簡潔だった現場の状況が、党中央ドクトリンのアルゴリズム署名をパスするための、無駄に冗長で難解な官僚語へと瞬時に変換されていく。誰もまともに読まないテキストの塊。

ふと、足元の防災備品ボックスの底に、見慣れないものが落ちているのに気づいた。
拾い上げると、それは一枚のフィルム写真だった。
化学薬品の微かな匂い。色褪せた印画紙には、銀塩で焼き付けられたいつかの避難訓練の様子が写っている。防災頭巾をかぶった子供たちが、レンズに向かってピースサインをしていた。

「デジタルツイン上の備品リストに存在しない未登録オブジェクトだ。監査エラーの要因になる。直ちに廃棄ログを生成しろ」
叔父のエージェントが警告を発する。彼の言う通りだ。こんなイレギュラーな物理メディア、報告に上げればまた無数の追加監査と再署名が待っている。

しかし、私は写真をポケットに滑り込ませた。
「特記事項なし、と。これでAI校正をかけて送信する」
「おい、徹。規定違反だぞ」
「うるさいな。たまには見逃せよ」
送信ボタンを押すと、どこかの誰かが務める五分間の総理大臣によって、数秒で承認のハッシュ値が返ってきた。

深夜ラジオからは、古い流行歌のイントロが流れ始めている。
凍えるような体育館の中で、ポケットに手を入れる。指先に触れる印画紙のざらついた感触と、僅かな厚み。すべてがデータとログで縛られ、摩耗していく世界の中で、そのささやかな手触りだけが、確かに私自身のものだった。