複写伝票の裏、シャトルは沈黙する
──平成0x29A年06月26日 13:20
耳元のウォークマンから、カセットテープが終端に達したことを告げる物理的なクリック音が響いた。俺はヘッドホンを首にかけ、オートリバースが作動して裏面の再生が始まるのを待つ。流れてくるのは、もう何百年も前に流行ったというJ-POPのコンピレーションだ。擦り切れた磁気テープ特有の、温かくも頼りないノイズが鼓膜を撫でる。
平成0x29A年06月26日、13時20分。
第8流通ブロック、スーパーマーケット「ジャスコ・ネオ」のバックヤードは、搬入作業のピークを迎えていた。搬入口のシャッターが開くと、無機質なモーター音と共に自動運転シャトルが滑り込んでくる。運転席は無人だ。かつては人が座っていたらしいその空間には、今は配送ルートを示すモニターだけが青白く光っている。
「おい聡、検品急げよ。また表のレジが詰まってる」
脳内のインカム越しに、兄貴の声がした。岸本隆。享年三十。かつてこの物流ブロックで死ぬまで働き続け、過労死認定された俺の兄だ。今は俺の専属エージェントとして、皮肉にも死んでからの方が健康的に俺を酷使している。
「分かってるよ。省人化レジの調子が悪いんだろ」
俺は腰のベルトホルダーから、支給されている業務用のガラケーを引き抜いた。折りたたみ式のボディを開き、物理ボタンを連打してシャトルの積荷コードを読み取る。画面の解像度は粗く、iモード風の簡素なアイコンが並んでいる。
店舗の方からは、「店員をお呼びください」という合成音声のリフレインと、客の苛立った舌打ちが漏れ聞こえてくる。最新鋭のはずの省人化レジは、特売日の負荷に耐えきれず、ここ数日は計算ミスやフリーズを頻発していた。システムが複雑になりすぎたのだ。党ドクトリンに基づく適正価格計算と、個人の信用スコアによる割引、それに遺伝子ネットワーク経由の優待処理がコンフリクトを起こしている。
その時、ガラケーの画面が赤く明滅した。
『緊急:内閣ユニット接続』
唐突なファンファーレと共に、俺の視界に拡張現実のウィンドウが割り込む。総理大臣の順番が回ってきたのだ。作業の手を止めるわけにはいかないが、無視もできない。
「チッ、忙しい時に。なんだ、案件は」
俺はカゴ台車を押しなら、視界の隅で法案概要を走査する。
『緊急時における手書き伝票の法的効力回復、および在庫管理におけるアナログ上書き権限の付与』
要するに、システムがバグった時は、紙とペンで書いた数字を正とみなす、というアナログ手続きの復権だ。
「承認しろ、聡」
兄貴が即座に言った。
「システムなんざ信用ならん。俺が現役の頃も、結局最後に頼りになるのはカーボン紙の複写伝票だった。デジタルは嘘をつくが、筆圧は残る」
「でも、これを通すと在庫データの改竄が容易にならないか? ブロックチェーンの整合性チェックをスキップするんだぞ」
「現場が回らなきゃ意味がないんだよ。見ろ、あのレジの行列を。手書きでレシート切ってやれば一発で解決だ」
確かにその通りだ。今の混乱を収めるには、原始的な手段が一番早い。俺はウォークマンのボリュームを少し上げ、カセットの回転音に身を委ねながら、ガラケーの「決定」ボタンに親指をかけた。
カチッ、というプラスチックの安っぽい感触。
『第46392内閣総理大臣決裁:承認』
その瞬間、バックヤードの空気が変わった気がした。
据え置きのドットインパクトプリンターが、けたたましい音を立てて動き出す。ジジジ、ジジジとヘッドが左右に走り、吐き出されたのは大量の複写伝票だった。
俺は排出された紙を手に取る。そこには、システム上の在庫数を取り消す二重線と、その横に手書き風のフォントで修正された数字が印字されていた。
だが、その数字はおかしい。
搬入されたはずの生鮮食品の数がゼロになり、代わりに『不明資産』という項目が増えている。
「……兄貴、これ、本当に大丈夫なのか?」
「ああ、処理が早くていい。これで帳尻が合う」
兄の声は平坦だった。生前の兄が、本当にこんな杜撰な処理を好んでいただろうか。俺はふと、自動運転シャトルの荷台に目をやった。
コンテナの隙間に、リストにはない黒い袋が積まれている。その表面には、白いチョークのようなもので、殴り書きの記号が記されていた。
さっき承認した「アナログ上書き権限」が、即座に適用されている。
俺は背筋が寒くなり、シャトルから目を逸らした。ウォークマンからは、能天気な90年代のラブソングが流れている。プリンターはまだ止まらない。紙送りのノイズが、誰かの忍び笑いのようにバックヤードに響き続けていた。