夏の終わりのバイパス承認

──平成0x29A年08月23日 13:50

ブラウン管の黒い画面に、僕の気のない顔が映っている。

「まだ直らないの、これ」

数時間前に来た子供の声が、静かな館内に反響しているようだった。
『平成生活文化記念館』なんて大層な名前だけど、実態はブロックの予算消化で建てられた、ただの古いガラクタ置き場だ。
中でも一番人気の体験コーナーにあるスーパーファミコンは、もう一ヶ月も壊れたままだった。

『予算申請、また止まってんだろ。どうせ第0x31A88ユニットの担当者が、ドクトリン署名のハッシュ照合で昼寝でもしてるんだ』

頭の中から、兄さんの呆れた声が響く。僕のパーソナル・エージェント、新田航平。三年前に過労で死んだ兄さんだ。

「わかってるよ」

僕は受付カウンターの裏で、iモードを模したインターフェースの業務用端末を立ち上げた。十字キーでカーソルを動かし、ブロックの行政ポータルにアクセスする。案の定、僕が出した『展示物修繕に関する予算執行要求』のステータスは、先週から変わらず『レビュー中』の赤い文字で止まっていた。

『ほらな。こういうのは、どこかの誰かが五分間の総理権限を掴んだ時に、たまたま気分で承認してくれないと永久に動かない。運ゲーだよ、運ゲー』
「……ゲームなら、せめて面白いやつにしてほしいな」

僕はため息をついて、別の作業に移ることにした。展示物の解説文の更新だ。古い紙の資料をスキャンして、生成AI校正にかける。
しばらくすると、AIが修正案を提示してきた。『より平成らしい、情感豊かなレトロ文体に最適化しました』というメッセージと共に。

『「ちょーウケるんですけど!」とか「マジ卍」とか混ざってないだろうな。あのAI、時代考証がガバガバだからな』
「大丈夫だって。今回はちゃんとプロンプトで年代指定したから」

僕が生成された文章を確認していると、ポケットの個人端末が「ピロリン」と懐かしい音を立てた。
画面には短い通知が表示されている。

『遺伝子ネットワークより通達:第7階層における皇統形質の保持率に、統計上軽微な希釈を観測。プロトコルに変更はなく、市民生活への影響はありません』

またか。僕は特に感慨もなく、通知を指で払って消した。

『俺たちの血も、だんだん薄まってるってことだな。まあ、今さらどうでもいいけど』
兄さんの声も、どこか他人事のようだった。

もう一度、気まぐれに行政ポータルを開いてみる。どうせ何も変わっていないだろう、と。

だが、画面に表示された文字に、僕は目を疑った。
さっきまで赤かったステータスが、緑色の『承認済』に変わっている。
承認時刻は、三分前。

『……おい、亮介。ログを見てみろ』
兄さんの声が、少しだけ緊張を帯びた。

僕が詳細ログを開くと、そこには奇妙な記録が残っていた。

『なんだこれ……承認者の署名欄が、空白?』
『ああ。党ドクトリンのアルゴリズムを完全にバイパスしてる。第0x2F001ユニットから、権限不明の緊急執行コードが直接発行された形跡だけが残ってるな。……誰だか知らんが、むちゃくちゃやる』

誰かが、面倒な手続きを全部すっ飛ばして、無理やり通したらしい。
たまたま総理になった誰かが、たまたまこの申請を見つけて、そして、たまたま解読済みの裏口を知っていたのかもしれない。

「……助かったな」
僕は、ぽつりと呟いた。

『まあ、結果オーライだ。これでやっと、あのガキに言い訳しなくて済む』

そうだ。これでスーファミが直る。それだけのこと。世界が少しだけ、あるべき姿に修正されただけ。

僕は承認ログのウィンドウを閉じた。そして、生成AIが作ったどこかチグハグな解説文の、修正作業に戻る。
夏の終わりの午後は、相変わらず静かだった。