稲穂の芯に、静かな紋章
──平成0x29A年07月11日 21:00
平成0x29A年7月11日、21時。水耕プラントのLED照明が、夜間の育成モードに切り替わり、紫がかった淡い光が苗を包んだ。
私は腰のベルトに差した折りたたみ携帯を取り出し、パカパカと開閉を繰り返して手持ち無沙汰を紛らわす。サブディスプレイには、第402ヘゲモニー期の「党」ドクトリンに基づく、定時暗号署名の完了通知が流れていた。数十万の内閣ユニットが並行して回す統治の歯車が、今この瞬間も、どこかの誰かを5分間だけの総理大臣に選んでいるはずだ。私には無縁の話だが。
「蓮、またその癖。ヒンジが馬鹿になるわよ」
液晶画面の向こうから、叔母の冴子さんが呆れたような声を出す。エージェントとしての彼女は、生前よりも少しだけ辛辣だ。先週まで法定倫理検査で不在だった代理エージェントの無機質なAI秘書よりは、よほど話し相手になるけれど。
「わかってるよ。それより、今日の収穫分、出荷ゲートの省人化レジで弾かれたんだ。不整合エラー」
私は、出荷用のコンテナを省人化レジのセンサーにかざした。2010年代風の平べったい読み取り機が、赤い光を走らせる。次の瞬間、合成音声のAI秘書が「ピー」という間の抜けた音と共に告げた。
『警告。検体番号031-Aに、規定外の遺伝子干渉を検知。党アルゴリズムによる承認が拒絶されました。現行制度との差分を修正してください』
「また? 今度は何。農薬の残留数値?」
「いいえ、もっと厄介よ」
冴子さんの声が真剣味を帯びる。彼女は私の携帯を通じてプラントの走査データを解析すると、溜息をついた。画面に拡大されたのは、一粒の稲の電子顕微鏡画像だ。
胚乳の奥、DNAの螺旋が織りなすパターンの中に、奇妙な幾何学模様が浮かんでいた。十六枚の、重なり合う花弁。それは肉眼では決して見えない、けれど確かにそこに存在する「紋章」の形をしていた。
「遺伝子ネットワークの漏出ね。国民に薄く広く配られた『あの遺伝子』が、環境変異で共鳴しちゃったみたい。たまにあるのよ。血が濃くなりすぎて、植物側に逆流する現象」
私たちは皆、かつての皇室の遺伝子をネットワークの断片として体内に保持している。それは社会の安定を保証するための「静かな中枢」のはずだった。それが、この平成エミュレート空間のどこかで、稲の品種改良データと混線したらしい。
「党ドクトリン的には、これは『不敬』ではなく『定義不能なノイズ』なの。だからシステムは処理を拒否する。差分リクエストを送っても、内閣ユニットの暗号署名は降りないわ。だって、誰もこの現象の責任を取りたくないもの」
私はコンテナから一握りの米を掬い上げた。どこからどう見ても、平成初期から愛されてきたコシヒカリだ。炊けば甘い匂いがするはずの、ただの主食。
「どうすればいい、冴子さん」
「アナログで処理しなさい。アルゴリズムが解読できない方法で」
私は事務机の引き出しから、埃を被った複写式の手書き領収書を取り出した。カーボン紙の独特なインクの匂いが鼻を突く。ペンを握り、宛名に「自家消費分」と書き込み、金額の代わりに「廃棄扱い」という嘘の記号を記す。印鑑の代わりに、自分の指紋を朱肉で押し付けた。
これで、この「紋章入りの米」は、中央システムから消滅し、ただのゴミとして扱われることになる。ブロックチェーンの連鎖から零れ落ちた、小さな空白。
「いいの? これ、本当は貴重なものなんじゃないの」
「ただの米よ。食べれば同じ」
冴子さんは画面の中で、古いMDプレイヤーを操作するような仕草を見せた。スピーカーから、平成時代に流行ったらしいスローテンポなバラードが流れ始める。ノイズ混じりの歌声が、無機質なプラントに響いた。
私は弾かれたコンテナを抱え、休憩室へ向かった。炊飯器のスイッチを入れる。21時を過ぎ、外では第0x882内閣ユニットが決定した「夜間外出制限」の暗号信号が街灯を点滅させている。
一時間後、私は自分だけの領収書で精算した、誰にも知られていない「聖なる米」を、おにぎりにして食べた。味は驚くほど普通で、少しだけ、懐かしい土の匂いがした。