群れの座標と、空席の隣
──平成0x29A年07月18日 22:00
平成0x29A年07月18日22時。
第5物流開発区のラボは、深夜の静けさに包まれていた。
モニターの青い光だけが、僕、佐々木陸の顔を照らす。何百台もの小型ロボットが、仮想空間でグリッド上を複雑に行き交うシミュレーション。
今日のタスクは、新設された配送ノードへの位置情報ビーコン最適化だった。
「陸、このセクター0x2C4の挙動、推奨ルート逸脱率が基準値を超過しています」
モニターの端で、代理エージェントの無機質な合成音声が響いた。母、涼子が生きていれば、もっと落ち着いた、しかし鋭い指摘が返ってきたはずだ。母のエージェントは先月から法定倫理検査に入っている。もう一ヶ月以上、戻ってこない。
「分かってる。でも、この逸脱がなぜ起きるのか、既存のドクトリンアルゴリズムでは予測できない」
僕は答えた。党ドクトリンのアルゴリズムが、半ば公然と解読されているという噂は、僕らのラボにも届いていた。最近、内閣ユニットからの政策変更リクエストも、以前より矛盾したものが増えている。まるで歯車が噛み合わなくなっているかのように。
僕のデスクの端には、埃をかぶったファミコンカセットが転がっている。「マリオブラザーズ」。昔、母と競い合った記憶が微かに蘇る。こんな単純なプログラムでも、僕らは熱中できた。
「既存のデータセットにない挙動は、新たなアルゴリズムの必要性を示唆します」
代理エージェントは淡々と続けた。その論理は正しい。だが、母なら「ちょっと視点を変えてみたら?」とか、「昔のレトロゲームのバグからヒントを得られないかしら」などと言ったかもしれない。そんな非論理的な発想が、時々、画期的な解決策に繋がることもあった。
僕は引き出しを開け、古い写真の現像袋を取り出した。中の写真には、若き日の母が笑っている。隣には幼い僕。まだモノクロの時代だ。一枚一枚、指でなぞる。この袋の中の「データ」は、現代のどんな暗号アルゴリズムよりも複雑で、解読不能だ。そして、倫理検査などというものとは無縁だ。
ラボの奥では、試作機である物流用群ロボットの実機が、不規則な動きを繰り返していた。プログラムされた位置情報ビーコンの信号を追いきれず、その動きは、まるで何かを探しているようにも見えた。党ドクトリンの歪みが、こんな末端のシステムにまで影響を及ぼしているのか。
僕は現像袋をそっと閉じた。代理エージェントの声が、また新しい警告を発している。それは正しい情報だ。しかし、僕の胸に響くのは、現像袋の中の母の笑顔と、ファミコンのピコピコ音、そして、この目の前で彷徨うロボットたちの、無意味に見えるけれどどこか切実な動きだった。
もしかしたら、僕が本当に解読すべきは、ドクトリンのアルゴリズムではなく、この袋の中に封じられた、もっと根源的な「人間らしさ」なのかもしれない。そして、それこそが、この不安定な世界を繋ぎ止める、最後の「署名」になるのかもしれないと、静かに思った。