壁越しの声、朝五時の電話帳

──平成0x29A年01月13日 05:00

朝五時、隣室から響く電子音で目が覚めた。FAXだ。

僕は枕元のスマートグラスを装着し、脳波UIで室温調整をかけようとした。けれど、いつものインターフェースが立ち上がらない。画面の隅に小さく「エージェント更新中 代理モード」の文字が浮かぶ。

ああ、そうだった。祖母の倫理検査が今朝から始まるんだ。

僕――桜井透(さくらい とおる)は、第3居住ブロックのE-14棟に住む28歳のフリーランス編集者だ。祖母のエージェントは、享年82で亡くなった桜井ハナ。元商店街の八百屋で、よく喋る人だった。

隣室のFAXは止まらない。壁が薄いから、給紙の音まで聞こえる。この時間に誰が送ってくるんだ。

スマートグラスに映る代理エージェントは、無機質な合成音声で「室温調整には音声コマンドをご利用ください」と告げる。祖母のしゃがれた声が恋しい。

仕方なく僕は布団を抜け出し、キッチンへ向かった。電気ポットのスイッチを入れる。90年代のデザインだが、内部は最新の省エネ機構らしい。平成エミュレーションの産物だ。

FAXの音が止んだ。代わりに、壁の向こうで誰かが電話をかけている声が聞こえる。

「はい、もしもし……ええ、こちらE-14の301です。いえ、まだ届いてないんです。電話帳の更新、先月申請したはずなんですが……」

電話帳?

僕は首を傾げた。電話帳なんて、スマートグラスの連絡先リストで十分なはずだ。けれど隣人の声は切実で、どうやら紙の電話帳を待っているらしい。

ポットが沸いた。僕はインスタントコーヒーを淹れながら、祖母のことを思い出す。

祖母は生前、よく言っていた。「透ちゃん、機械ばっかり信じちゃダメよ。紙に書いとかないと、消えちゃうんだから」

エージェントになってからも、その口癖は変わらなかった。仕事の締切を忘れそうなとき、祖母は「手帳に書きな」と脳波UIの隅から囁いてくれた。

でも今日からしばらく、その声は聞けない。

隣室の電話が切れた。また静かになる。

僕はコーヒーを啜りながら、スマートグラスで今日の予定を確認しようとした。けれど代理エージェントは、僕の脳波パターンをまだ十分に学習していない。UIがぎこちなく反応する。

「予定確認……クライアントA社、原稿提出、14時……」

合成音声が読み上げるが、祖母のように「ほら、昼までに仕上げなさいよ」とは言わない。

僕は溜息をついた。

ふと、玄関のドアポストに何かが挟まっているのに気づいた。見に行くと、手書きのメモ用紙だった。

『301号室 桜井様
昨夜FAXを送信してしまい申し訳ございません。
電話帳の配布が遅れており、ご連絡先が分からず……
管理組合より、回覧板をお願いいたします。
――302号室 田中』

回覧板。そういえば、最近見ていない。

僕は玄関を開け、廊下を見た。302号室のドアには、古びた木製の回覧板が掛かっていた。中には手書きの連絡事項と、印刷された政策変更リクエストの写しが挟まっている。

僕はそれを手に取り、部屋に戻った。

スマートグラスに映る代理エージェントは、相変わらず無機質だ。けれど僕の手には、紙の温度がある。

祖母が帰ってくるまで、少しだけアナログに頼ってみようか。

壁越しに、また隣室のFAXが鳴り始めた。