紙の記憶、代理の残響
──平成0x29A年03月18日 08:00
平成0x29A年03月18日、朝八時。
自動ドアが開き、冷たい春の空気が店内に流れ込む。開店前の静寂は、いつも僕を落ち着かせた。僕は『ライフスタイル・デポ』のデジタル家電コーナーで、新しい触覚フィードバック端末のデモ機を調整していた。画面に触れると、指先に微細な震えが伝わる。最新の家電は、実体がないものを触覚で表現しようと必死だ。
「神崎悠さん、本日の業務報告を開始します。代理エージェント、田中です。午前中は、フロアのディスプレイ更新と、在庫管理システムへの政策変更リクエスト反映が最優先事項と解析されました」
耳元で、母の声とは似ても似つかない、人工的な声が響く。本来のエージェントである母、神崎明美は現在、法定倫理検査中だ。その間は代理エージェントの田中が補佐する。汎用サポートAIに母のデータが部分的に移植されているはずだが、どうにも機械的で融通が利かない。
「ああ、了解。田中、まずはあのフロアマップのディスプレイを……」
僕が指示を出し始めると、自動ドアがもう一度開いた。開店直後にしては珍しく、一人の老婦人がゆっくりと店内に入ってくる。僕のコーナー目掛けて歩いてきた。
「すみませんね、朝早くから。FAXの用紙を探しているんですが、そちらにありますかね?」
老婦人の問いに、田中がすぐに反応した。
「FAXの用紙ですね。老婦人の要望は『ファックスの洋紙』と解読されました。当店の在庫に『洋紙』はございませんが、類似品として『和紙』をご案内しますか?」
「いや、田中、違う。FAXの用紙だよ、紙。印字するやつ」
僕は頭の中で田中を訂正する。洋紙と和紙。発音は似ているが、意味はまるで違う。母ならきっと、すぐにピンときて「A4ですか? B5ですか?」と尋ねただろう。田中はそのまま、老婦人に向かって「『和紙』はいかがですか?」と提案しようとするので、慌てて口を挟んだ。
「おばあちゃん、どんなFAX用紙ですか? サイズは?」
「ああ、普通の、ちょっと厚手のやつ。〇〇社の感熱紙じゃないのよ」
老婦人の言葉に、田中がさらに混乱した。
「『カマンベールし』と認識しました。チーズ製品は食料品コーナーですが、連携システムでは現在、閣議決定による流通規制のため在庫が不安定です」
僕はもう、何を言っても無駄だと悟った。田中は懸命に翻訳しようとしているのはわかるが、どうにもズレている。まるで、僕たちの文化様式をエミュレートしている『平成』自体が、どこか歯車が噛み合っていないような不協和音だ。
店内を見渡すと、別の若い男性がスマホの触覚フィードバック端末をいじりながら、分散SNSで何か呟いているのが見えた。「この店、品揃えイマイチじゃね?」といった悪意あるハッシュタグが付いていなければいいのだが。
僕はバックヤードの棚から、指定されたA4サイズのFAX用紙を取り出した。〇〇社の感熱紙ではない、普通のタイプだ。老婦人はそれを手に取り、満足そうに頷いた。
「これこれ。ありがとうね」
お会計を済ませ、老婦人が去っていくのを見送る。僕のズボンのポケットには、通勤で使った磁気定期券がひっそりと収まっていた。タッチするたびに、カチリと鳴るあの感覚。今の時代、物理的な磁気を読み取るなんて、レトロ通り越して一種の文化財のようなものだ。
手元に残ったFAX用紙の感触が、やけに生々しい。ざらりとした表面、インクの匂い。そして、耳奥で代理エージェントの田中の声が、まだどこか歪んだ翻訳を繰り返している。「『カマンベールし』……社会安定に最適な流通形態を検討します」
僕たちの世界は、デジタルとアナログ、生と死、そして意味の狭間で、常に奇妙なノイズを発している。そのノイズが、まるでこのFAX用紙のざらつきのように、指先に、そして心に、いつまでも残るような気がした。
母なら、今、何て言ってくれるだろう。
「よし、じゃあ次は、あのフロアマップの……」
僕は再び、田中へと指示を出し始めた。