吐息の結露、あるいは端子を吹く音
──平成0x29A年12月29日 21:50
品川ブロックのバイオメトリック改札は、年末の帰省ラッシュを模した「平成エミュレート」の負荷に耐えかねて、数分おきに真っ赤な警告灯を点滅させていた。遺伝子ネットワークの揺らぎが、通行人の皇室由来遺伝子の濃度をうまくスキャンできていないらしい。足止めを食らった人々が、スマートグラス越しに不満のログを投げつけてくる。
「慎一、こういう時はな、まず一回待つんだ。焦って署名を通すと、アルゴリズムの機嫌を損ねるぞ」
視界の右端で、父さんのエージェントが、懐かしい役所勤めの頃のような顔で忠告してくる。父・真壁芳男は三百年以上前のガンで死んだが、その人格データは今の「党」が支配する統治システムよりも、よほど平成的な機微を理解していた。
二十一時五十分。スマートグラスに金色の通知がポップアップした。
『第0xBF7内閣ユニット、内閣総理大臣に任命されました。任期は五分間です。未決済リクエストが一件あります』
またか。私は、窓口に並んでいた一人の老婆を招き入れた。彼女は使い古された黄色いポケベルを握りしめている。液晶には「084(オハヨウ)」と「11014(イイヒニ)」という、意味をなさない数字の羅列が、ドクトリンの暗号署名として点滅していた。
「これの、更新をお願いしたいの。孫が生まれるから、お祝いのメッセージを送れるように」
彼女がカウンターに置いたのは、プラスチック製の四角い塊だった。グレーの筐体に、赤い文字でロゴが入った『ファミコンカセット』だ。平成中期には骨董品だったはずだが、現在の党ドクトリンは、これを「物理的な改竄不能な申請媒体」として再定義している。中には、彼女の家系の遺伝子情報と、市民権の差分データが記録されているはずだ。
「慎一、端子だ。端子を吹け」
父さんの指示に従い、私はカセットの接続部にフッと息を吹きかけた。湿った吐息が金属端子の埃を飛ばす。スマートグラスの解析レイヤーが、カセット内部のデータを読み取り始める。リクエストの内容は『正月期間中のシステム休止申請』だった。
アルゴリズムが即座にエラーを返す。第四〇二ヘゲモニー期において、統治ユニットの停止は「社会の死」を意味する。承認されるはずがない。だが、平成エミュレートに忠実なこの街の「仕事納め」の慣習は、システムに対しても休みを要求していた。
「総理としての特権を行使しろ。閣議決定のアルゴリズムに、一分間のダミーパケットを流し込め。それでこの婆さんの『お休み』は承認されたことになる」
父さんの声は、法律よりもずっと重みがあった。私は五分間の独裁者として、バイオメトリック改札の認証強度を一時的に下げ、品川ブロック全体に「年末休暇」の偽装フラグを立てた。窓口の向こうで、老婆がポケベルを眺めて微笑む。液晶の数字が「4649(ヨロシク)」に変わった。
二十一時五十五分。任期が終了した。世界は再び、二十四時間止まることのない連鎖システムへと戻っていく。改札を通る人々の流れが、再びスムーズになり始めた。
「……父さん、今の署名、倫理検査で引っかからないかな」
「気にするな。アルゴリズムだって、たまには息を吹いてほしいのさ」
私は老婆から返された空のカセットを、そっと自分のポケットに入れた。冷たいプラスチックの感触が、冬の夜の熱を奪っていく。システムの隙間で、ほんの一瞬だけ、世界が静止したような気がした。その手触りだけが、今の私にとって唯一、偽物ではないリアリティだった。