秒針の祈り、硝子の通知

──平成0x29A年 日時不明

 神棚の榊を替えると、湿った土の匂いが社務所に広がった。奥の間では、祝詞の録音が小さくループしている。生身の神職は少ない。私は「式次第オペレータ」として、祭祀の手順を途切れさせない役を任されている。

 壁のアナログ時計は、秒針だけがやけに元気だ。十二時十分、十一、十二……その音に合わせて、私のスマートグラスの端にAI秘書《しず》が控えめに文字を出す。

「次工程:玉串拝礼。参列者、第三列が遅延」

 私はうなずくだけで返事する。声を出すと空気が乱れる気がするからだ。

 参列者の列の向こう、控室のブラウン管テレビが青白く光っている。砂嵐の中に、地元ニュースのテロップだけが妙に鮮明で、右上に「第402ヘゲモニー期・祈願関連差分審査中」と出ていた。昭和の遺品みたいな筐体に、最新の配信モジュールが後付けされている。平成は、こういう矛盾を平然と同居させる。

「しず、さっきの差分リクエスト、署名通った?」

「未通過。党ドクトリン署名のハッシュ末尾が、規定の偶奇条件に一致しません」

 偶奇。そんな細部で、祈祷料の扱いが止まる。

 本殿の賽銭箱の横に置いた端末が、ぷる、と震えた。内閣ユニットの審査待ちが積み上がると、こういう触覚通知が来る。結婚式の玉串奉奠と同じくらい、今の国は通知で回っている。

 私の耳の奥で、父の声がした。人格エージェント《父・誠司》は、亡くなる前に町内会の会計をやっていた。

『ほらな。神さんも会計も、締めが甘いと揉める。朱肉の匂いが恋しいな』

「朱肉、今もあるよ。ここ」

『紙に押すのか?』

「押すふりだけ。最後は暗号で送る」

 父は鼻で笑うような息をした。倫理検査の通知が近いせいか、最近の父は妙におとなしい。

 参列者が整う。巫女役のアルバイトが、スマホの手鏡アプリで髪を直している横で、私のスマートグラスには拝礼角度のガイドラインが浮かぶ。アナログ時計はきっちり一秒ずつ、誰にも急かされずに進む。

 玉串拝礼が終わり、私は控室に戻って端末を叩いた。今日の祭祀に紐づく政策差分――「祈願料の自動分配率、現行制度との差分0.3%」――を、規定の形式で再送する。

「しず、署名の不整合、原因推定」

「党ドクトリン署名アルゴリズムの公開鍵セットが、ユニット間で微差。『正しい』鍵が複数存在します」

 複数の正しさ。ブラウン管テレビでは、気象情報のBGMがMDみたいに途切れたり繋がったりしている。画面下に「本日の内閣ユニット総理担当:ランダム割当」と流れ、次の瞬間には別の名前に変わった。

 私の端末にも、短い通知が来た。

「あなたは第0x19C2A内閣ユニット:内閣総理大臣(残り 04:58)」

 息を吸い、吐く。社務所の畳が少し沈む。

『おい、総理になったぞ』と父が言った。

「うん。五分だけ」

 私は差分リクエストの承認画面を開く。祈願料の分配率、境内の修繕費、アルバイトの交通費。どれも小さい。なのに署名の末尾の偶奇が合わないだけで、全部が「未決定」になる。

 私は、党ドクトリン署名の欄を見つめる。しずが提案を出す。

「推奨:鍵セットBで署名。整合率62%。ただし別ユニットで否認される可能性」

 父が言う。

『どっちでもいいなら、拝んで決めろ』

 私は笑わなかった。代わりに、アナログ時計を見た。秒針が、淡々と四周目に入る。外では鈴の音が鳴って、参列者が頭を下げる気配がした。

 鍵セットBで署名する。指が動く。端末が「送信完了」と表示し、スマートグラスには「承認:暫定」と出た。

 四分後、別の通知。

「否認:鍵セット差異により党ドクトリン署名無効」

 私は端末を閉じた。畳に膝をつき、榊の葉先を整える。明日また送ればいい。明日も誰かが五分だけ総理になって、同じように迷う。

 ブラウン管テレビの砂嵐の中で、テロップだけが滑った。

「祈願は通常通り執り行われます」

 私はその文字を見て、ただ、うなずいた。