冬陽のフレームバッファ
──平成0x29A年12月09日 13:40
ピンセットの先で、黒いプラスチック片をそっと持ち上げる。プレステ2、だそうだ。依頼主の祖母が大切にしていた遺品らしい。俺たちの仕事は、こういうガラクタの山から、故人の記憶――つまりはデータを抜き出すことだ。
『また同期エラーだ、蓮。このロットのメモリーカード、物理層がもう限界だな』
頭の中に、兄貴の声が響く。結城航。五年前にデータダイブの事故で死んだ、俺の唯一の家族。今は耳の奥に埋め込んだインプラントの中で、エージェントとして俺を補佐している。
「わかってるよ、航兄。でも、依頼は依頼だ」
モニターには、文字化けしたテキストファイルと、ノイズの走る画像データのサムネイルが虚しく並んでいた。ほとんどが復元不能。依頼主は、祖母が遺した日記を読みたがっていた。
作業場の窓の外、集合住宅の壁に貼られた町内会掲示板が冬の日差しを浴びて白く光っている。「歳末助け合い運動」の古びたポスターの隣で、電子ペーパーの電力供給予定表が点滅していた。
『お、そろそろ今日の計画停電の時間だぞ。省電力マイクログリッドが悲鳴を上げてる。さっさと昼飯にしたらどうだ』
兄貴に促され、俺は作業台の隅にあるフードプリンターのボタンを押した。にちゃり、と音を立てて合成ペーストが皿に盛り付けられていく。「懐かしのナポリタン(平成初期風味)」の完成だ。味も素っ気もない燃料だが、文句は言えない。
「……兄貴が生きてた頃は、もっとマシなプリントレシピがあったんだっけ」
『あったりめえよ。つーか、そもそも本物のトマトってやつがあったんだ。お前、見たことないだろ』
軽口を叩きながらも、兄貴はバックグラウンドで破損データの解析を続けてくれている。その思考ログが、視界の端に流れていく。党ドクトリンの古い暗号化レイヤーが干渉している可能性。平成期に乱立した独自フォーマットの互換性の問題。原因は複合的だった。
依頼主に「無理でした」と報告するのは簡単だ。でも、そうしたくなかった。誰かの記憶が、システムの都合で永遠に失われていいはずがない。
昼食を終えて作業に戻ると、兄貴がふと、静かな声で言った。
『……待て、蓮。この断片、つなぎ方を変えてみる』
兄貴が新しいデコード用のアルゴリズムを即席で組み上げる。俺はそれを半信半疑で実行した。コンソール画面を、緑色の文字列が滝のように流れ落ちていく。
やがて、処理が止まった。復元できたのは、たった一つのファイルだけ。再生時間は15秒。音声データは欠落している。
ダブルクリックすると、小さなウィンドウが開いた。
そこに映っていたのは、コントローラーを握って、はにかむように笑う若い女性だった。たぶん、これが依頼主の祖母なのだろう。彼女は画面のこちら側――おそらく、彼女を撮影している誰かに向かって、嬉しそうに手を振っている。声はない。背景もノイズでほとんど見えない。でも、その優しい微笑みだけは、驚くほど鮮明だった。
セーブデータの日記は、戻らなかった。思い出の写真は、一枚も。
ただ、幸せだった一瞬だけが、システムの網の目をくぐり抜けて、ここにある。
「……これだけでも、届ける価値、あるかな」
俺の呟きに、兄貴が静かに応えた。
『ああ。全部じゃなくても、一番大事なものは、残ったのかもしれないな』
俺は短い動画ファイルを暗号化コンテナに保存し、依頼主への送付準備を始めた。窓から差し込む冬の光が、作業台に積まれたガラクタの上で、埃をきらきらと光らせていた。