手動バルブとトマトの葉

──平成0x29A年10月10日 14:40

平成0x29A年10月10日 14:40。
水耕栽培プラント第7棟の片隅。休憩所の壁には「10月」と大きく印字された紙のカレンダーが掛かっている。西暦と平成が入り混じった祝日表記は現在のシステムと一致していないが、支給品だから誰も気にしない。足元では、円盤型のロボ清掃員がウィーンと鈍い音を立てて無意味に往復している。

「透、C列のトマト、ちょっと葉先が巻いてるねぇ」

右耳のイヤホンから、しわがれた声が響いた。三年前、老衰で亡くなった祖母・節子の近親人格エージェントだ。彼女はかつて土にまみれて野菜を育てていたからか、完全管理されているはずの水耕プラントの微細な変化にもうるさい。
作業着の胸ポケットに入れたIDケースには、色褪せたフィルム写真が挟んである。麦わら帽子を被って笑う生前の祖母の姿だ。僕は写真越しにぽんぽんと胸を叩き、「わかったよ、ばあちゃん」と独り言のように返した。

C列の制御盤に向かうと、空中に浮かぶ公共ARサインの「稼働状況:良好」という緑色の文字が激しく明滅していた。そしてその背後に、普段は見えないはずの無機質な文字列が滝のように流れている。

「またか……」

党ドクトリンの暗号署名アルゴリズムだ。数百年前のシステムが老朽化し、末期の今ではこうして半ば公然と生のコードを吐き出すようになっている。数十万の内閣ユニットが並行処理で「第4農業ブロックへの微量要素供給リクエスト」を閣議決定するはずが、アルゴリズムの不整合でループに陥り、バルブの承認プロセスが完全にロックされていた。

「水が止まってる。このままだと根が傷むよ」祖母のエージェントが急かす。
システムが回復するのを待っていれば、今日の当番である「ランダムで5分だけ総理大臣になった誰か」が承認を通してくれるかもしれない。だが、それがいつになるかはわからない。コードの羅列は、まるで世界の歪みそのもののように画面を埋め尽くしている。

僕はため息をつき、制御盤の下にあるカバーをこじ開けた。中には非常用の手動バルブがある。社会安定に最適だと判断された平成エミュレートの一環で残された、アナログ極まりない真鍮製のハンドルだ。

「ばあちゃん、流量の目安は?」
「焦らないで。昔の水道の蛇口をひねるみたいにね。ちょろちょろ、でいいんだよ」

重いハンドルに両手で体重をかける。ギギギ、と金属が軋む音がして、やがてシューッという水流の音がパイプの中に響いた。ARサインは未だにエラーコードと承認待ちのアルゴリズムを垂れ流しているが、透明なチューブの中を確かに栄養液が流れ始めた。

萎えかけていたトマトの葉が、心なしかピンと張りを取り戻したように見える。

「ほら、いい子だ。土がなくても、ちゃんと生きてる」
イヤホンの奥で、祖母が優しく笑った気がした。

ふと見上げた天窓から、秋の午後の日差しが差し込んでいる。壊れかけの世界で、誰も全容を知らないドクトリンが空回りし続けている。それでも、僕の手でバルブを開けば、目の前の命には水が届く。
ロボ清掃員が足元にぶつかって方向転換していくのを見下ろしながら、僕はほんの少しだけ、明日も悪くないかもしれないと思った。