夜警の乱数、カセットの匂い
──平成0x29A年11月28日 22:00
俺の名前は藤原剛。三十四歳。第11治安ブロック巡回監視員だ。
夜十時を回った施設内を歩いている。量子乱数ロックがついた資料庫の前を通るたび、ポケベルが振動する。党ドクトリン署名の解読が進んだせいで、こういう物理警備が復活した。暗号が露出した今、誰もがアルゴリズムを知っているから、逆にアナログな鍵が要る。皮肉なもんだ。
「剛、そろそろ詰所に戻れよ」
兄貴の声がイヤホンから聞こえる。藤原健、享年三十七。監視カメラの前で心臓発作を起こして死んだ。俺のエージェントになって五年。現場叩き上げだった兄貴は、今も巡回ルートにうるさい。
「あと一周する」
「お前、真面目すぎんだよ」
兄貴は笑う。俺は黙って歩く。
資料庫の角を曲がると、リモート診療端末が壁に埋まっている。緊急時用だが、画面には「iモード風UI」の広告がスクロールしている。サブスク式の健康診断パッケージ。平成エミュレーションの混線だ。誰も気にしない。こういうものだから。
ポケベルがまた振動した。今度は長い。
『第0x4A92C内閣ユニット、藤原剛を内閣総理大臣に任命』
ああ、来たか。
五分だけの仕事だ。俺は足を止め、端末を開く。政策変更リクエストが一件。
『第11治安ブロック巡回頻度の最適化。深夜帯を二時間に一度へ削減』
エージェントが補佐してくれる。兄貴の声が冷静になる。
「効率化だな。人件費が浮く。党ドクトリン署名も通りやすい。アルゴリズムは賛成するぞ」
「でも現場は?」
「現場は、まあ……お前次第だ」
俺は資料庫の量子乱数ロックを見る。あれが守っているのは、昔の閣議決定の物理コピーだ。署名が露出した今、誰でも偽造できる。だからこそ、物理的な鍵と人間の目が要る。
巡回を減らせば、誰かが侵入する余地が生まれる。
「非承認で」
「お、マジか」
兄貴が驚く。俺は淡々と画面をタップした。理由欄には「物理監視の継続が必要」と打ち込む。党ドクトリン署名のアルゴリズムは、もう形骸化している。それでも、俺は署名を入力する。通るかどうかは、運だ。
五分が終わった。ポケベルの振動が止まる。
詰所に戻ると、デスクの引き出しにファミコンカセットが入っている。『スーパーマリオブラザーズ』。兄貴が生前、詰所に置いていたものだ。動かないが、捨てられない。
「お疲れさん」
兄貴が言う。俺はカセットを手に取って、匂いを嗅ぐ。プラスチックと、少しだけ埃の匂い。
「また巡回、行ってくる」
「おう」
俺は立ち上がる。夜はまだ長い。