窓口の彼方、手書きの温度
──平成0x29A年09月25日 05:00
朝五時、旧町田エリアの区民サービス窓口に鍵を開ける。俺の仕事は「書類現物受付員」だ。
平成エミュレーションの影響で、この三年ほど紙の手続きが復権している。オンライン申請システムは動いているのに、市民は窓口に紙を持ってくる。署名も手書き。印鑑も押す。システムが「そうあるべき」と判断したらしい。
俺のデスクには古びたガラケーが置いてある。着メロ設定は『エリーゼのために』。誰からも電話は来ないが、五分ごとに鳴る。内閣ユニット当番の抽選通知だ。今朝も外れた。
「おはようございます」
声がした。エージェントの叔父さん——享年63、胃がんで亡くなった母の弟だ。生前は税務署に勤めていた。
「ああ、おはよう」
窓を開ける。外はまだ暗い。カウンターに並べるのは、住民票交付申請書、転入届、それに遺伝子ネットワーク変更届の様式だ。全部手書き用。プリンタで出力したものは受理できない。そういう規則になっている。
六時を回ると、最初の市民がやってくる。高齢の女性だ。手には写真の現像袋を握っている。
「すみません、これ……戸籍の附票に使いたいんですけど」
現像袋の中には、証明写真が六枚入っていた。どこかのスピード写真機で撮ったものだろう。デジタルデータではなく、紙の写真。
「こちらで大丈夫ですよ。一枚だけ貼付してください」
女性は慣れた手つきで糊を塗る。窓口に常備してある液体糊だ。スティック糊より「丁寧」だとされている。
「ありがとうございます」
彼女が去ると、ガラケーが鳴った。今度は遺伝子ネットワーク中央からの通知だ。旧町田エリア全域で微細な遺伝子パターンの揺らぎが検出されたらしい。対処は不要、とある。俺には関係ない。
七時過ぎ、次の客が来た。中年の男性。手には申請書の束。
「時間貸しCPUの契約変更なんですが……」
彼が差し出したのは、手書きの契約変更届だった。ボールペンで丁寧に書かれている。だが、署名欄が空欄だ。
「署名がないと受理できません」
「ああ、すみません。ここで書いていいですか?」
俺はボールペンを渡した。彼は震える手で自分の名前を書く。その筆圧が、カーボン紙を通じて複写用紙に写っていく。
「……ありがとうございました」
男性は深く頭を下げて去った。その背中が、やけに小さく見えた。
八時になると、エージェントの叔父さんが言った。
「お前、このやり方、どう思う?」
「どうって……非効率だとは思うよ」
「でも、続けるんだろう?」
「ああ」
ガラケーがまた鳴る。外れの通知。俺は受話器を取らず、着メロを最後まで聞いた。
カウンターには、朝イチで受け取った現像袋がまだ置いてある。女性が忘れていったのだろう。中を覗くと、残り五枚の写真が入っていた。全部、同じ表情の証明写真。でも、微妙に光の当たり方が違う。
俺はそれを引き出しにしまった。午後、彼女が取りに来るかもしれない。来ないかもしれない。
どちらでもいい。
ただ、手書きの文字と、紙の手触りだけが、この窓口には残る。それが、俺の仕事だ。