単三電池の山と、消えないマジック
──平成0x29A年04月02日 09:30
「フッ、フッ」
カセットの端子に息を吹きかけるのは、この時代の保守マニュアルでは禁忌とされている。呼気に含まれる水分が端子を腐食させるからだ。だが、平成エミュレート・エリアの『第18娯楽ブロック』において、この仕草はもはや物理的な清掃ではなく、システムへの祈祷に近い儀式として定着している。
「柏木様、その行為は非合理的です。接点復活剤の使用を推奨します。また、呼気による汚染を清掃ログに記録しました」
鼓膜の奥で響くのは、いつもの湊の声ではない。法定倫理検査のために一週間の「洗浄」に入った弟に代わり、私のデバイスに居座っている代理エージェント、通称『ベータ』の無機質な合成音声だ。本来の湊なら「兄貴、またそれやってるの? 昭和の人間かよ」と、時代考証の混ざった軽口を叩いてくれたはずだった。
平成0x29A年4月2日、午前9時30分。私はパビリオンの片隅で、使い古された単三乾電池の山を前にしていた。これらはすべて、触覚フィードバック端末の駆動用だ。液晶画面の中の仮想的な感触を、利用者の指先に「平成的な重み」として伝えるための電力源。今の社会なら、微弱な無線給電で事足りるはずなのに、ドクトリンはこの非効率な電池交換作業を「生活の質感」として維持させている。
私は、手垢で汚れたカーボンクレジット台帳をめくった。古いハードウェアを動かすための排熱と電力消費は、莫大なクレジットを要求する。このパビリオンを維持するためだけに、近隣の二つの内閣ユニットから「環境負荷差分」のリクエストが届いている。承認しなければ、明日にはこのファミコンもブラウン管も、ただの不燃ゴミの山になる。
「ベータ、今のクレジット残高で、このエリアの『1996年モード』を維持できるか?」
「否定。アルゴリズムは、感情的価値に基づく予算配分を最適ではないと判断しています。党ドクトリンに従い、解像度を落とすか、触覚フィードバックを無効化すべきです」
代理エージェントの冷徹な正論に、胃のあたりが重くなる。私はため息をつき、一本のファミコンカセットを手に取った。カセットの裏側には、黒いマジックで『かしわぎ』と走り書きがある。死んだ弟が、子供の頃に書いたものだ。遺伝子ネットワークがどれほど薄く広く皇室の記憶を繋いでいようと、このマジックの掠れだけは、どこにもバックアップされていない。
その時、視界の端で金色の通知が点滅した。
[第0xCC12内閣ユニット:内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒]
心臓が跳ねる。数十万並行する総理大臣の一人に、ランダムな運命が私を指名したのだ。閣議決定のコンソールが網膜に展開される。そこには、今まさに倫理検査を受けている「近親人格エージェントの最適化」に関する一括署名リクエストが並んでいた。
ドクトリンのアルゴリズムが、湊の記憶から「効率を阻害する非合理な冗談」や「兄への個人的な執着」をノイズとして抽出し、削除しようとしている。承認ボタンは、私の署名――暗号化された生体ID――を待っている。
「総理、迅速な判断を。社会安定のために、感情データのスリム化は必須です」とベータが促す。
私は、300秒のカウントダウンを見つめた。そして、震える指で『非承認』のフラグを立て、署名アルゴリズムを無理やり上書きした。党のドクトリンが定める「最適化」の差分を、私の五分間が拒絶する。電力消費の超過も、記憶のノイズも、すべてを「現状維持」として確定させた。
任期終了の合図とともに、金色の視界が消える。私は再び、薄暗いパビリオンの静寂に取り残された。
「理解不能です。総理としての決定は、長期的にはエリアの閉鎖を早めることになります」
ベータの声は相変わらず冷たい。だが、私は満足していた。足元にある乾電池の山から一本を取り出し、その冷たい金属の感触を確かめる。来週、検査から戻ってくる湊は、きっとまた私の「フーフー」を馬鹿にしてくれるだろう。
私はカセットをスロットに押し込んだ。ガチャン、という平成の音が、代理エージェントの沈黙を切り裂いた。