午前六時、MDと検査票の透き間

──平成0x29A年08月26日 06:40

俺の名前は藤崎 修。三十四歳。第5治安ブロック、倫理検査受付センターの早朝係だ。

八月のまだ涼しい朝、センターの玄関を開けると、待合ホールに三人ほど並んでいた。みんな手にエージェント端末を握っている。倫理検査は義務だから、誰もが三年に一度は来なきゃならない。今日も淡々と受け付けて、検体を預かって、代理エージェントを起動する。それだけの仕事だ。

「おはようございます。藤崎さん」

カウンターの向こうから、代理エージェントの声がした。俺の耳元に響くイヤホン型だ。標準型の女性音声。母さんの声じゃない。

母さんのエージェントは、今まさに検査中だ。享年六十七、心不全。生前は小学校の先生で、いつも「ちゃんと確認しなさい」って口癖だった。でも今は、この代理に置き換わってる。

「はい、おはよう」

俺は小さく返事して、受付端末を立ち上げた。画面には今日の予約リストがずらり。ブロックチェーン投票で承認された検査スケジュールが、自動で割り振られている。最近は投票の結果がほぼ形骸化してるって噂だが、俺には関係ない。

最初の利用者が近づいてきた。五十代くらいの男性。端末を差し出してくる。

「検査、お願いします」

「はい。こちらにお名前と端末IDを」

俺が台帳にタッチペンで記入を促すと、男性は少し戸惑った顔をした。

「紙ですか?」

「ええ、バックアップ用です」

本当は電子で全部済むはずなんだが、このセンターは古い。カセット台帳みたいなアナログ記録も残してる。誰も文句は言わないから、そのままだ。

男性が記入している間、俺のポケットで着メロが鳴った。古いタイプの電子音。懐かしい響きだ。画面を見ると、メタバース広場からの通知だった。

『第0x4A2B内閣ユニット、観光振興差分案を暫定承認。投票は継続中』

ああ、またか。俺も一応、市民だから投票権はある。でも朝からそんな余裕はない。

「お待たせしました」

男性が記入を終えた。俺は端末を受け取り、検査室の奥へ案内する。検査自体は機械が全部やる。エージェントの記憶モジュールを抜き出して、ドクトリン適合性をチェックする。大体二週間かかる。

「検査中は、標準型の代理エージェントが起動します。ご了承ください」

「ああ、分かってる」

男性は少し寂しそうな顔をした。きっと、大事な誰かのエージェントなんだろう。

俺もそうだ。母さんの声が聞けないのは、やっぱり寂しい。

二人目、三人目と受付を終えて、ようやく一息ついた。カウンターの隅に置いてあるMDプレーヤーに手を伸ばす。これは母さんの形見だ。古い音楽が入ってる。俺が中学生の頃、母さんが録音してくれたやつ。

イヤホンを挿して再生すると、懐かしいメロディが流れた。母さんが好きだった曲。歌詞は覚えてないけど、リズムだけは染み付いてる。

「藤崎さん、次の予約が入りました」

代理エージェントの声が、音楽に重なる。俺は慌ててMDを止めた。

「ああ、分かった」

画面を見ると、急な追加予約だった。名前は——藤崎 清美。母さんの名前だ。

いや、違う。これは俺のエージェント検査の記録だ。母さんのエージェントが検査に出されたとき、自動で生成されたログ。それがなぜか今、予約リストに紛れ込んでる。

システムのバグか?

「代理、これは?」

「確認します。……データベースの同期エラーのようです。削除しますか?」

俺は少し迷った。削除すれば、ログは消える。でも——。

「いや、いい。そのままで」

「了解しました」

代理の声は淡々としてる。母さんなら、きっと「ちゃんと確認しなさい」って言っただろう。でも、もう母さんはいない。

俺はMDプレーヤーをポケットにしまった。次の利用者が来る前に、カウンターの端末をもう一度確認する。ログはまだ残ってる。母さんの名前が、画面の中でひっそりと光ってた。

検査が終われば、母さんは戻ってくる。でも、その母さんは本当に母さんなのか——俺にはもう分からない。

外では朝日が昇り始めてる。治安ブロックの監視カメラが、淡々と街を映し続けてる。