届かない荷札、夕焼けのカーボン
──平成0x29A年04月15日 18:40
四月の夕暮れは、排ガスのない空気のせいか、やけに透き通る。
俺は台車を押しながら、商店街の裏路地を歩いていた。配達端末のガラケー画面に表示された住所は「第8商業ブロック 桜が丘3-12-7 吉岡方」。だが地図データが古いのか、番地が一つずれている。
イヤホンの中で、おばあちゃんの声がした。
「――恒ちゃん、その角じゃないよ。もう一本先」
吉岡ハナ。享年八十一。俺の母方の祖母で、十二年前に肺炎で死んだ。生前は宅配便の仕分けセンターで三十年働いていた人だ。住所の読みと地図の照合だけは、どんなシステムより正確だった。
「ありがと、ばあちゃん」
角を曲がると、空き地の手前にプリクラ機が一台、雨ざらしで置いてある。筐体の側面には「プリント倶楽部 Super」の文字。硬貨投入口は錆びていたが、液晶はまだぼんやり光っていて、AR広告がその上に薄く重なって浮いている。《カーボンクレジット残高を確認しませんか?》と半透明の文字が、筐体の上で揺れていた。
配達端末が震える。月次のカーボンクレジット台帳の更新通知だ。配達車両を使わず徒歩で回っている俺には微量ながら排出権の余剰が積まれていく。ばあちゃんが「もったいないから歩け」と言い続けた結果だった。
吉岡方は、一本先の通りにあった。古いマンションの一階。インターホンを押すと、六十代くらいの女性が出てきた。
「すみません、記憶補助デバイスのお届けです。受領にエージェント署名が要ります」
女性はうなずいて端末に手をかざした。だが認証が通らない。画面に赤い文字が出る。
《エージェント人格データ:法定倫理検査中。代理エージェントへの委任記録が未更新です》
「あの……」女性が困った顔をする。「主人のエージェントが検査に入ってて。代理が来てるんですけど、届出がまだ」
記憶補助デバイス。認知機能の衰えた人間が、エージェントの補佐で日常を維持するための小さな機械だ。届かなければ、今夜から夕飯の作り方も、薬の場所もわからなくなるかもしれない。
ばあちゃんが囁く。
「恒ちゃん。コンビニのコピー機で委任状の仮出力、できるはずだよ」
「……できるの?」
「昔ね、届け先のおじいちゃんが判子忘れたとき、よくやったの。仮受領の控えをコピー機で刷って、後から正式な書類と差し替えるの」
違法ではない。グレーでもない。ただ、誰も使わなくなった古い手順だった。
俺は近くのコンビニに走った。コピー機の画面はiモード風のUIで、階層が深い。「届出・届出・届出」とメニューを三回たどって、ようやく仮委任状のテンプレートを見つけた。
百二十円。硬貨を入れると、温かい紙が出てきた。
吉岡方に戻ると、女性は玄関先に座って待っていた。仮委任状に代理エージェントの識別子を手書きで記入してもらい、俺の端末で撮影して仮受領を完了させた。
「ありがとうございます」
女性はデバイスの箱を胸に抱いた。中身は小さなイヤホン型の装置で、亡くなった誰かの声が、忘れたことをそっと教えてくれる。俺のばあちゃんと、同じように。
台車を押して帰り道を歩く。プリクラ機の前を再び通りかかると、AR広告が切り替わっていた。
《あなたのエージェント:吉岡ハナ 次回法定倫理検査まで残り14日》
十四日。
検査に出したら、ばあちゃんは二週間いなくなる。代理が来る。住所の読みも、コンビニの裏技も知らない、まっさらな代理が。
「ばあちゃん」
「なあに」
「……今のやり方、俺にも覚えられるかな。コピー機の仮委任状」
少し間があった。
「覚えなさい」
ばあちゃんの声は、いつもより静かだった。
「あたしがいなくなっても届けられるように」
夕焼けが、空き地のプリクラ機の液晶をオレンジに染めていた。画面の中では、誰かが昔撮ったままのフレームが、まだ点滅していた。